山手線での停止事件を機会に考えたいこと

 レ・ミゼラブルという名作文学作品で、主人公のジャン・バルジャンは飢えに苦しむ身内の子どもたちのためにパンを盗み、19年間投獄される。

 パンひとつの盗みが19年間の服役という罪になったわけではない。刑期自体は短かったのに、脱獄を繰り返したため結果的に出るのが19年後になったのだ。

 この小説を読む読者にとって、主人公に起きたことは他人事だ。だから「なんで逃げずにガマンして短期で出なかったのかな。どう考えたってそっちのほうがいいだろうに」と考えてしまう。つまりは、(表面上)平和な世界に身を置いているので、純粋な損得(パン一個で19年なんてどう考えても割に合わないだろう)でものを考えるからだ。

 でも実際、本の中のジャンは、現代に生きる落ち着いた読者のようには考えられなかったわけだ。読書体験というものは、自分がリアルで成し得ない体験や、自分の発想じゃ思わない考え方や感情に触れ、そういう未知から学ぶことにあるはずだ。なのに、せっかく自分と違う価値観のことが書かれてあるのに「自分だったらぜってーこんなバカなことはしないな」「この作者アホじゃねぇの」とか突っ込みながら読むのって、読書の価値の半分以上を捨てているような読み方だ。

 ジャン・バルジャンにしか分からないのだ、どんな気持ちで19年間牢にいたかは。たとえ本当の所は分からないにしても、頭悪いとか言わず「どんな気持ちだったんだろう?」と思いを馳せられるのが真の読書家であろう。



●自分は正しい、という視点からする読書・映画鑑賞・ニュース視聴はせっかくの学びや気づきを圧倒的にこぼす。



 東京の山手線で線路に財布を落とした乗客が、駅員に取ってほしいと頼むが、短い間隔で電車が来るのですぐには対応ができなかった。納得いかない乗客は、非常停止ボタンを押してまで電車を止めてしまう。

 それに激高した駅員の対応が動画で撮られ、拡散されて議論を呼んでいる。この迷惑な乗客にはこれくらい言って当然、問題ないという意見もあれば、駅員の立場は間違ってはないが、言い方ってもんがあった。ただでさえ、サービスを提供する立場の者にはデリケートな対応が求められる時代なのに、けんか腰で怒鳴るのは間違い。淡々と対応すればよかったという意見も。

 今後、同様な事件に巻き込まれるかもしれない可能性に備えるならば、このような意見は役に立たなくもない。



●ただ、当事者の駅員と乗客の二人に向けては、まったく無意味な意見である。



 ニュースを受けてああだこうだと言っているのは、事件当事者ではない第三者。事件現場に居合わせたわけでもなく、しかも発言者同士の顔も見えない中で、こうすべきだったああすべきだったという話は時間つぶしのうさばらしにしかならず、公共的な価値は無である。

 9割の確率で、平時にこの手のニュースを聞いて「自分ならこうするな!」と考えれていても、実際にそのような場面に遭遇した場合、落ち着いていた時そのように考えていたことなどほとんど思い出せないであろう。なってみればわかる。

 それが、温度差なのだ。19年間パン一個で牢屋なんて、アホだなという普通人と、実際に何度も脱獄を試みた(失敗したらリスクは大きいことが分かっていて、数度失敗してなおそれでも脱獄にトライした)ジャンの正味の気持ちとの間に乖離がありすぎるのだ。それは、幼い人類には非常に埋めがたい。



 駅員というのも、たいへんなんだろう。

 経営者は利益を上げようとする生き物だから、お金を潤沢に使ってお仕事が快適にできる余裕のある人員配置にはしていないだろう。そこは、より少ない人件費で抑え、きっちきちの勤務になっているのではないか。

 やることも多くただでさえ追われているのに、そこへ乗客はお客様とはいえ、下手したら十万人レベルの足に影響してしまう愚かな行為に、平常心でいるのはむつかしかったのだろう。

 乗客もさんざん責められているが、財布を落としたのだからそこには免許証や定期券・クレカ他重要なカード類が入っていたのかもしれない。4万円という額は微妙な線だが、本人には重要だったのかもしれない。ここで意味のない議論は、財布(たかが四万円)のために電車を止めるなよ! という話である。

 パン一個で19年? おかしいやろというのと同じで、なぜ非常停止ボタンまで押せてしまったのかは本人しか分からない。実際そうなってしまったものを、本人の世界観・宇宙観の蚊帳の外で語っても、ヒマつぶし程度の価値しか生まない。

 大昔、幼女連続殺人があった折、犯人が見ていたホラー映画が問題になっていたことがあった。やり玉に挙がった映画の作者が意見を言っていた。「私たちは健全にこのジャンルを楽しんでいる。ホラー映画を見たら皆が皆真似をするわけではない。だから、映画自体をなくせとか見れなくしろいう議論は乱暴だ」と。



●財布を駅のホームに落としたからといって、非常停止ボタンを押す人はほとんどいない。そのレアなケースを、一般常識の視点から「それはないやろ」と議論することに意味などない。特殊なケースとして心理学者が研究対象として注目するなら分かるが、一般人がまっとうな意見を述べることは価値なしである。



 事件中のリアルな心の葛藤や感情の動きは、本人にしか分からない。それを味わってもいない我々が、評論家か道徳の先生みたいに「こういう態度でいるべきだった、言いすぎだ」とか涼しい顔で言えてしまうのは笑える。

 聖書のなかで、イエス・キリストを慕うある女が、イエスに高価な香油を贈った。(というか実際にその場で使った)その時、イエスをのちに裏切ることになるイスカリオテのユダが、「こんな高価な香油を使うんだったら、それを売って貧しい人に施した方がどれだけ役に立ったか」ということを言って腹を立てる。

 イエスは、そんなユダをたしなめる。この女を責めてはいけない、私に最高のことをしてくれたのだから怒るなよ、と。実はイエスには分かっていたのだ。言葉上は正しいが、その根底には愛がないことを。血の通った温かさがないことを。



●ユダの言ったことと、山手線事件で皆が色々言うこととは共通している。どちらも言っていることはその通りだが、誰も実際の駅員と乗客の気持ちまで考えるに至っていない。



 相手の立場に立たない、気持ちまで分かろうと汗をかかない意見とは空虚なものである。そういうものがネット上には渦巻いており、地球人類が全体的にまだまだ成長過程だなぁと思わせる材料を私に提供してくれる。

 いいことをした、という話なら人は感情移入しやすいが、悪いこととなると、とたんに同じ立場に立とうという気が失せてしまうものらしい。最初から、相手の立場を考えることを放棄するのだ。「悪いものは悪い」という考え方が、思考停止の原因となっている。

 愛、というものが今の時代大切だとあなたが本当に思うなら、今一度世の中の闇の部分に絡めとられた人・道を踏み外す者や常人からは信じがたい行為をする者の心を、少しは思いやってみてもいいのではないか。私ならそんなことはしない、と偉ぶるだけではなく。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る