Q&Aのコーナー第八十八回「子育てにコツはあるのか」

Q.


 子育てに関してお聞きしたいです。

 私は一才になる娘がいます。子供に、この人生ゲームを思いっきり楽しんでもらうために、親ができることはありますか?

 また、今1歳児と一日中一緒にいれる日々は、私の人生想像しうる限り最高に幸せな時間なんだろうなと感じる反面、夜寝るときに思うことは、明日も子供が昼寝してるときにはまったりできるぞ……と子供と離れる時間を楽しみにしてる自分に驚きます。もっと子供と全力で向き合いたいです。

 筆者様には二人お子様がおられると拝見したので、子育てに関して思われることを是非お聞きしたいです。



A.


 その力み方には、ちょっと危なっかしいものを感じます。

 あなたの言う「全力」で子どもと向き合ったら、あまりいいことにはならないと思います。



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 最初に断っておくが、Q&AのAだけを読んで、筆者がこの質問者さんを単にダメだと言っていると受け取らないでいただきたい。

 私はむしろ、ネグレクトや虐待の話が多い世の中にあって、この質問者さんは素敵な親だと思う。子どもを思う気持ちがまっすぐに伝わってくる質問文だとも感じた。

 要するに、人としても親としてもこの質問者さんは立派だし、褒めるところばかりなのである。でも、なぜ上記のアンサーのような返答になるのかというと——



●人(親)として立派であるということと、子どもからして本当にいい親かどうかということは違う。その二つは多くの場合同時に成り立たない。



 筆者が世の中でよく見る残念なケースは、親として立派でもそれが子どものためになっておらず、親が「なぜうまくいかないの?」と嘆いているケース。

 多くはないが、「人(親)としては、教育熱心な親からしたら失格のような人間なのに、なぜか子どもとうまくいっている」ケース。おそらく筆者はこれに当たる。

 親も素晴らしく子どもも素晴らしいというのは、超絶なレアケースだと思う。ややこしいことに、他人にうまくそう見せている(見栄のための疑似円満家庭)場合もあるので、騙されてはいけない。



 就職や部活、学校生活でもそうではないか?

 小学校から中学校に上がったその時は、皆さんも緊張した思い出があるのでは?

 最初は緊張して、「がんばるぞ!」みたいなむだな力みがあったりする。でも、数か月も経てば子どもというのは順応が早いもので、いろいろなことが自然になる。中には「それに関してはまだ緊張感を失わなくていいんじゃないかな~?」ってことまで緩んでしまう。(笑)

 アルバイトの勤務初日とか、部活の新一年生の初日とか。先輩からしたらそこまで力まなくていいのに、ってくらい要らない力が入っているものだ。でもそれは、その人物が誠実で真面目な人であるという、よい意味での証しなんだけれど。

 力みというものは、何かに対してまだ「良く知らない・あるいは情報不足」だからこそ起きるものだと思う。質問者さんは、おそらくは新米ママ。質問文には一歳のお子さんの前に子ども(兄か姉)がいるとは書かれていないので、恐らくだが子育ては初めてなのだろう。

 まずかけてあげたい言葉は、そんなに力まなくていいですよということである。

 力んで意味があるのは、確かな技術とこれをこうすればまずこうなるという経験則から来る知恵があってこそである。それがないのに力んでも空回りする。

 もちろん、意気込みは買う。でも素人の力みは時として危険を生むこともある。思い入れが大きいと、うまくいった時にリターンする幸せや喜びは大きいが、うまくいかない時の落胆や精神への打撃もまた大きくなるリスクがある。



 子ども時代、『若草物語』という児童文学を読んだことはあるだろうか。

 本好きな子なら読んだだろうが、もしかしたら本で読んだことはないけどアニメや映画化したものなら見て内容くらいは知っている、という方も多いのかもしれない。

 昔の映画や文学作品は、日本語タイトルをつけるときにめっちゃ意訳する。それがうまくはまる場合もあれば、それはちょっと訳凝りすぎだろ、と思うほど変形させられたものもある。赤毛のアンも、原題は『グリーンゲイブルスのアン』で、赤毛などという言葉はない。

 若草物語も、めっちゃ原題と違う。原題が『Little Women』。直訳すると、小さなレディたち。貴婦人とか、立派な大人の女性というニュアンスもある。

 このタイトルが、作品全体を貫く世界観を示している。子どもは、大人ほど知恵のない、守ってやらないと教えてやらないとダメな存在ではなく、現実として幼さのゆえに大人と比してできないことは多くとも「人間としては対等である」というところをおさえている。



 筆者は、この「人として、魂として対等」というところが、子どもと接する上で重要なスタンスになっていると思う。もちろん、子どもが下手こいたりくだらない失敗をしたら「アホやな~」とか「何やってんの」と突っ込むことはある。

 でも、その言葉の根底には、対等な命への眼差しがある。親としては、もちろん我が子を守ってやらねば、いい人生を歩んでほしいからできるだけ道を整えてやりたい、と思うものだろうが、ちょっと落ち着けとこの世の「いい親のはずなんだけどそれに相当する感謝を子から受け取れない」空回りする親に言いたい。

 Netflixで配信されている『グリーン・マザーズ・クラブ』という、教育ママの世界を題材にした韓国ドラマがあるが、筆者はこれを見てすごく嫌な気分になった。現実にはこのドラマのような子育てもあるんだろうが、一体何が重要なのか、本当の幸せなのか見失っている見本のような気もする。



 さっきも言ったでしょう。親として立派であるということと、子どもに好かれる親であることは一致しないと。その大きな原因は『一方的』であること。

 さっきの韓国ドラマでもそうだが、親たちは子どもに一言も「どうしたいか」を聞いていない。希望を聞いていない。作中の親たちは自分たちが世間で調べて結論を出した『子どもの幸せにはこれが最善』と確信したことを押し付け、良かれと思っていこそすれまったく疑問を感じていない。

 親がそんなことをしたところでまずうまくいかないので、筆者の場合は『一切なにもしない』ということを貫いている。親のほうからこんなことをしておけとか勉強しろとか。習い事も、今のうちにこういうのをやっといたらなどという話も一切したことがなく、放置状態である。小5の姉と小2の弟には勝手にさせている。

 ゲームをいくらやっても怒らない。むしろ長時間根を詰めてやっていたら「それはそれで何かにつながるかも?」と思い特に静止しない。おう、やれやれとすら思う。一流はひたすら時間をかけて打ち込むものだから。

 ただ視力に問題が出るのはちと考え物だが、ゲームばかりして! という意味合いでは注意しない。



●子になにもしない、というのはネグレクトや放置とは違う。

 ただ、相手も自分と同じ人間で、その魂に自ら生き抜き自分の居場所を見つけられる力をそもそも持っているという信頼がベースにある。

 親ができるのは子どもがそれを自力でやりやすいように補助輪になることであって、決して親の理想や自身が果たせなかった夢の肩代わりなどさせてはいけない!



 自分が子供時分はこうだっから子どもにはこうしてあげたい、という考え方はちと危険だ。もちろん、内容によってはよいものもあるが、一歩間違うと怖いし、その間違いが得てして起こりやすいのである。

 子どものためと口では言うが実は自分のためであることが多いことを気付けない、幼い親が増えた。今回私が言っていることは子育て上の万民共通の真理でも法則でもマル秘テクニックでもなんでもない。当たり前だが、子どもはその数だけ皆一人ひとり違うがゆえに、そてにフィットする子育ても正解はひとつではなく、いろいろ。

 いろいろなのに、そこに怠け者が便利に「どんな時でも通用する定規」という本来あり得ないものをあるかのように創造して子どもを測ろうとする。だから、バカな親たちはその定規が目指させるもの(学力・一流校・資格等)に子が邁進するよう尻を叩く。あなたのためだから、と!

 昔そんなCMがあったな。喫茶店で、ダイエット中の女性のケーキを友人が横取りして「あなたのためだから!」って言う。



 ばらけた話をここでまとめてみよう。



①私は、子育てに関しては基本放任主義である。もちろん衣食住に関しての世話や、子どもが学校でいやな思いをしないでいいように宿題をやったか忘れ物はないか、等くらいの確認は絶対前提。ただ、宿題をやる以上の学習は問わず、すべて子どもの自主性まかせ。それでどうなっても、彼らの人生である。

 放っておいたら勝手に読書もしているようだし、ゲームに熱中してたらそれで育つ何かがあるかも、と止めない。極めたらそれはそれで自信が付くし友達の尊敬も集める。何も勉強ができることだけが自己肯定につながるわけではない。



②放任主義の逆は、親がよかれと思って自分で調べた情報に基づいて子どもに色々と「お膳立て」をすることである。もちろんうまくいくケースがあることは認めるが、これは子ども側に親を受け入れる度量がないと成立しないので、子どもがどんなタイプの人間なのかということに依存する「賭け」になる。

 そのギャンブルで負けたら、あなたは大事なものを失う。



③追えば逃げる。手放せば、逆に得られる。

 子育ては、ここの微妙な駆け引きの連続である。追いすぎても、追わな過ぎてもいけない。その絶妙な線を探るのは難しいことだから、失敗は恥でも何でもない。

 ただ、失敗を恥じて他人にとりつくろったり、子どもがうまくいかないと子どもの失敗を責めたら終わりである。



 さっきも言ったが、誰でも最初は張り切るものだ。過度に子育てに理想と気負いをもつものだ。でも、怖いのは「慣れてきた」頃だ。

「全力で」という言葉を質問者さんは使ったが、ちと引っ掛かる表現である。子どもと離れている時間ほっとする自分を客観視して、いやもっと子どもとしっかり向き合いたい! というのは言葉上よい母親っぽいがやはりあぶない。

 子どもは神様じゃないよ。あなたが仕える王様でもないよ。あなたの上の立場でもない、逆にあなたより下でもないという「超絶扱いの難しい」存在が相手なのだ。

 そんな途方もない相手に、大したことない知恵を巡らし子どもに押し付けても、まぁいいことはない。ここはあきらめて、見守ることに徹しましょ。ただ、子ども自らが持つ大いなる可能性と力を信頼して。 

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