やったからやり返される、ただそれだけのこと

 山口県で、ある市がコロナ関連の給付金4600万円を誤って振り込んでしまい、受け取った男性が返還する姿勢を見せないことで、どうもこれは裁判になるぞというニュースがあった。しかし当の男性は、この記事を書いている現在、行方が分からなくなっているとのことである。

 情報番組のあるコメンテーターは「この問題は刑法と民法の狭間に落ちた、構造的な穴の問題」「返すよりも、有罪覚悟でお金を返さないほうが得と見たのでは」という意見を述べていた。



「やられたらやり返す。倍返しだ!」という、ヒットドラマ「半沢直樹」の名ゼリフがある。今回の事件は、筆者の見るところこれが起きただけ。

 この社会は、血も涙もない「システム」が人間を支配している。もちろん人間個々人は温かく、人間味もある素敵な人たちであろうが、そうした優しさが発揮されるのは家族や親友、あるいは関わることが自分に益となると判断した者に対してだけなので、大きな視座からは「冷たい世界」である。

 筆者のもとには、今年も自動車税を含むもろもろの請求が来た。電気代・水道代・ガス代、スマホやネットなどの通信費……社会の側は、請求した人物にどのような事情があり、どんな人生なのかなんて知ったことではない。とにかくお金を入れてくれたらそれでよく、ないなら自動的にサービスを止めるだけのことである。

「マッチ売りの少女」という童話があるが、あれなどはシステム社会の闇を指摘した究極のお話である。少女が凍死しているのを次の日町の人々が見つけるが、たぶん誰の胸もそう痛んではいない。表層的に「かわいそうだな」とは思うが、殺したのはシステム(お金のないものは食えずに住めずに死ぬ)なので、分かりやすい犯人不在のその死は大きなインパクトもなくやがて忘れ去られる。



 現代に生きる人は、経済面での成功者を除き、そういった事態が「明日は我が身」という恐れを大なり小なり持っているものである。常に、生まれたら出来上がってしまっていた「社会の支配」に恐れを抱きながらも、恐れの裏返しとして反逆心・反抗心も胸の奥に秘めることとなる。普段は、社会という強大な敵に「できることなどない」とあきらめていても、今回の事件のようなチャンスが来るとどうなる?

 おそらくだが、今回の騒動の渦中の男性は、市の誤送金という偶然がなければ、普通の一般人として生き続けていたのではないか。たまたま、社会に不満を持っていて「一矢いっし報いることができる」機会を得てしまったことで、それに乗る誘惑に負けてしまったのではないか。



●この事件の男性は、ただの金に汚い人ではない。いわゆる悪人、でもない。

 ただ、押さえつけていた不満や復讐心を解放できる機会にさらされ、人としての弱さからそれに乗ってしまった。悪い人というより哀れな人である。

 やられたから、やり返したのである。(社会から冷たく扱われてきたから、この千載一遇の機会に、公的機関に冷たく扱い返してやった)



 例えばだが。我が子を快楽殺人者に惨殺されたとして。親は、裁判の場でか大勢の警護や監視人がそばにいる状況でしか犯人に会えない。だから、めったなことで親がその犯人に復讐を遂げる、なんてことは起きない。それは、被害者家族に「自制心がある」などというのは決して正解ではなく、単に社会のシステム側がそうした可能性が生じる機会をことごとく潰すことで事なきを得ているだけである。

 だから、もしも周囲がノーガードで親と犯人が二人きりで、親の手に銃か刃物が握られているという状況を作ればどうなるか? 今回の事件は、不幸にもその状況が整ってしまったことが悲劇を生んだ。男は、社会に復讐できる千載一遇の機会を得たのである。



 システム社会は、こちらの人生の事情などお構いなしに、生き続けさせてあげるための金を要求する。それが払えなければ、ホームレスにでもなんでもなるしかない。生きている価値がないとまで思い詰めたら自殺にもなる。

 そんな世界に疑問を抱きながら、反抗心を胸に秘めながら生きてきた者が「社会に復讐するチャンスがあるんだが、乗るかね?」と言われてしまったら、それは誘惑だろう。

 自己責任社会は、個人側が何か間違えたら「自己責任でしょ」「自分が悪いんだろ」という対応になるのに、国や今回誤送金した市側のほうがミスったら嘆くのはいまさらいかがなものか。システムの穴のせいできれいに返してもらえない、と嘆く前に、そのシステム様を金科玉条として頼り切ってきた権力側が大いに反省するべきでないか?

 もちろん、明らかに間違って送られてきたと分かっているお金を返さないのが悪いことであるのは間違いない。筆者は、この男性が悪くないなどという極論を言っているわけではない。ただこれを機会に、この男性にそうまでさせたものは何だったのか、ということを皆で考えるよい機会としてほしいのだ。



『衣食足りて礼節を知る』という言葉がある。

 社会の決まりだから、それぞれの選択責任だからと非正規雇用や無職の人たち、ひとり親世帯や子どもが欲しくても生めない人たち、社会に適応できない働き盛り年齢の引きこもり……社会は「利益を上げるために走ること」ばかりに目を奪われ、足元がおろそかになっている。

 出生率が低い社会で、「将来日本という国は消滅するのではないか」とまで言われている今日。いくら社会の決まりだからといって、普通に生きようとしている人たちに「衣食を足りなくさせて、社会への復讐者予備軍を増やしている」のは、国家としていかがなものかと思う。

『まさかの時の友こそ真の友』という言葉もある。今回、市が誤送金したのはその「まさか」のケースに当たる。日ごろから、市民に良くしていたら「ああ、これ間違ってますよね。返しますね! いつもお疲れ様です」と言ってもらえるのだ。

 つまりは、国や市側はその男性を「真の友」にはできていなかったというわけだ。



 どこぞの衆議院議長だかが、「月にたった百万円しかもらっていない」と発言して、批判が巻き起こった。当たり前である。

 そんな感覚の人間が国の政治を動かしているのであれば、国がまさかの時に一体何人の国民が、自分の利益や安全を秤にかけてまでも国を守ろうとしてくれるだろうか? 今まさに、日本の行く末は正念場を迎えている。

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