何でもかんでもハッピーエンド、は人をポンコツにする

 NHKの連続テレビ小説・通称「朝ドラ」は、大好評のうちに終了した「カムカムエブリバディ」の跡を継いで「ちむどんどん」が現在放送中だ。

 カムカムに関しては、筆者はほぼツッコミどころを見出せない。優れた脚本というものは、ストーリー全体が「あれっ?」とか思うことなく喉をところてんが通るように、スッと心に入ってくるもののことを言うのだと思う。だとすれば、カムカムは間違いなく傑作である。

 もちろん、最後まで完結していないものをまだ途中でくさすのは良くない。そうは言っても、この記事を書いているその朝の放送回は、少なくとも筆者の中ではまれに見る最悪の脚本だった。



 一家の大黒柱だった父親が急死し、残された母親は4人もいる子どもたちを食わせるために重労働に従事するが、体を壊したりして「こんなことはいつまでも続かない」と分かる。父親が残した借金もあり(父親は決して金にだらしなかったわけではなく、ちゃんとやっていての仕方なしの借金である)、親戚や村人とも相談した結果、子ども一人を東京に行かせることが決まる。東京に行くことにあこがれをもっていた主人公が、まぁ当然選ばれる。

 で、いよいよバス停で見送る、という段になって唖然とする展開が待っていた。



①兄貴が「やっぱりオレが行く! 妹は行かせられねぇ」と爆弾発言。今それ言う?



②それでも主人公はバスに乗り込む。しかし、結局降りてくる。そして4人兄弟が抱き合い、みんなで一緒に暮らすのが一番だ! みたいなことをほざく。



③それだけでもあきれるが、さらに驚きは母親。「かぁちゃん、間違ってた!」とか言い出す。いい大人が何を言ってるんだ!

 母親は、最後の最後まで「どうやったら家族一緒にいれるか」を散々シュミレートしたはずなのだ。その熟考の結果、どうしてもそうしないといけない、という結論になったはずなのだ。それをさ、子どもがゴネたら「うん、それでいこう」って何? そう思いきれるんなら、最初っからそうしてればいいさ?



 多分、脚本家としてはここで視聴者の感動と涙を誘いたかったのだろうと思う。

 でも、筆者のようなひねくれ覚醒者はしらけまくった。

 もしこの作品が、この日本の大勢に違和感なく拍手で迎えられるなら、それは世の一般平均的な良識ある人物であろうはずの人々の「底の浅さ」の証明になると思う。

 この世界は、すべての可能性が等しく出現する世界。例えば「いい」と「悪い」があったら、そのどっちかだけ100%にすることが理論上できない世界。それがこの、陰陽から成る二元性世界だ。相対概念の支配する世界であり、相対と言うからには文字通りふたつの対になる概念が必要で、そのどちらかだけが存在はできない。



●比較する対象が存在しないと、その主体も存在できない。



 この地球に、人間が無人島に一人いるだけだったら、比較する他者がいないので自分が美女なのかイケメンなのか、背が高いのか太っているのか、性格が優しいほうなのか怒りっぽいのかなど一切認識できない。

 長いがないなら短いもない。重いがないなら軽いもない。光しかないなら闇はないが、それだと闇がないと光も存在できなくなる。光だと認識できなくなるからだ。

 不幸がないと幸せもない。幸せしかなくなれば、その瞬間に幸せが消えてしまうという皮肉が起きる。



 私たちは確かに、この複雑かつヘンに構築されてしまった社会の中にあって、生きるため稼ぐために大きなストレスにさらされている。それは認める。だから出勤前のひと時や休みの日くらいは「嫌なことは忘れていい気分に浸りたい」「いくら現実でも、気の重くなるものは見たくない」と思うのも仕方がない。

 しかし。これだけ世の中に人が多いと、「こんなことは現実にないと分かっているが、せめてTVの世界だけでも架空の成功物語を見てストレス解消」というふうにうまく付き合えない人もいる。

 冒頭で紹介した朝ドラの展開に感動してしまったらどうなる? 子どもが見て、そのまま大人になったらどうなる?



①やることに正義があれば、間違ってさえいなければ何を言っても(しても)ゆるされる。しかも成功する。



②現実をよく見ず、これは良いことだと信じてしまうとそれを推し進めることばかり見えて、周囲が被る迷惑に考えが及ばなくなって自身だけがヒーロー気分でいい気になる。



③あきらめなければ、本気で信じて動けば何とかなる。そういう体験を身をもってした人間は、現実に負けているようにみえる人に対して「なんであの人たちは障害をはねのけられないの? やろうとさえ思えばできるのに!」と、自分の尺度で他人を裁いてしまう。いやいや、あなたは周囲のお陰様で(あるいは多大な迷惑をかけることで)それができたんですって!



 この朝ドラの卑怯なところは、結局家族みんなでそろって生活するんだと決まったシーンのあと、生活をどうしたとか借金をどうしたとかいう事後処理の説明がないまま、主人公が高校生になっているシーンに飛んでしまうことだ。説明逃げたな!

 まぁ、朝ドラを子どもの「絵本」みたく考えるならそれでもいい。確かに、厳しい現実抜きのきれいごとは、幼い魂の養分としては必要だから。だが、大人の鑑賞にも耐えうるリアルドラマとしては、及第点をやるわけにはいかない。

 感動を誘おうとして、悲惨な現実を無理矢理ハッピーエンドにしようとして、かえってその強引さが不自然さを生み、一部の人種(人生経験豊富な魂の老人)をしらけさせてしまった。



 スピリチュアルという業界も、やはり社会の閉塞感を打破しようとして、よかれとやった結果愛とかあなたのままでいいとか、好きなことだけするとかそういう「甘い」言葉の羅列が躍るようなものが大多数になってしまった。幸せになれる・いいことが起きる引き寄せられる、開運金運恋愛運上昇、等々。一方で、世界の厳しい側面に目を向けるものは受けない。たとえば筆者のように!

 もちろん、そういった者が大勢の現社会の精神段階では実際に役に立ったりすることもあるので、別にいい。ただ、数学の公式みたいにきっちり例外なく万民を救えはしない分、そこからこぼれる人が苦しむことになる。

 そのこぼれた人たちが、筆者のメッセージの対象なのだ。今イケイケな教えでドンドン成功して幸せになっている人は、一生筆者とご縁がなくてかまわない。

 筆者は、今こそ公で活躍をしていないが、昔の時点でのフェイスブックやツイッター上の友達(フォロワー)がまぁまぁいる。見たくなくとも、時々タイムライン上に彼らの投稿が表示される。読んでみるとまぁ、人に夢見させる内容の多いこと! 期待させる内容の多いこと!

 それが悪いというわけではなく、ただ「大風呂敷を開けてあなたもできる! と言ったなら、ファンに対してちゃんとしたアフターサービスをしろ」と思う。つまり、先生の言うとおりにやってるんですけどできません、という人に親身になって付き合ってあげるのだ。それが、成功の方程式を掲げて「これをやれば皆も成功できますよ! 幸せになれますよ!」と公言してしまった人間の取るべき責任であり、誠意ある姿である。



 なんでもかんでもハッピーエンドは、確かに口と喉にも甘い。

 甘いが、甘いものばかりだと味覚が鈍る。

 いいものだからということで世界にそればっかりを並べ立ててしまうと、宇宙が勝手にバランスを取ろうとして逆のものがかえって吸い寄せられてくるよ。

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