幻想を生きる、ということ
記事としては小さな扱いの、こんな残念な事件のニュースがあった。
あるどこぞのフリーのカメラマンが、タクシーを利用した。
間の悪いことに、降車直前に料金メーターの金額が上がった。
それでムカッと来たこの人物、なんと料金(980円ぽっち)を払わないだけでなく、運転手に頭突きを食らわせたというのである。
(状況的にどうやってそんなことが可能だったのか興味がある)
その後、この人物はどこかへ逃げてしまったが、後で警察署に出頭してきたそうである。
非二元や、それに類するスピリチュアルでは『この世は幻想』である、という。
言い換えたら、私たちが見て触れて「リアル」と感じるこの人生も、中身スカスカの立体ホログラフにも似ていて、「夢のようなものだ」とも言える。
(一般には自覚しにくいことだが) 確かにそうではある。でも、この事件のような話を聞くたび、「この世界は幻想」の意味を改めて考えてしまう。
●この世界が幻想、なのではない。
この世界で個人の自我(エゴ)が捉える解釈だけが、幻想の世界なのだ。
具体的には、今日の話だと「料金メーターが上がったタイミング」である。
客だったカメラマンの視点と、宇宙次元の現実との間にズレが生じたのだ。
〇客の視点
「降車直前にメーターが上がるなど、オレに悪意があるじゃないか? みんなでオレのことをバカにしているのか? そんなにオレをみじめにさせたいのか? みんなして、オレのことなんかキライなんだろ、クソッ!」
〇宇宙現実
メーターを作ったメーカーによって設定された (あるいは機械導入後にタクシー会社が独自に設定し直した)機械的プログラミングに従って、たまたま料金が上がった瞬間に目的地に着いてしまったしまった、というただそれだけ。
宇宙もタクシー運転手も、誰もカメラマンをあざ笑ってはいない。見下してもいない。カメラマンに余計にカネを払わせて意地悪してやろうなどとは、この瞬間宇宙の誰も思っていない。もっと冷たい言い方をすれば 「誰もアンタのことなんか気にしてない」。
この例からも分かるように、「幻想」と呼ぶべきは世界そのものではなく「あなた一個人が、自分の都合を軸に展開する思考や感情、そのフィルターを通して見える世界」こそが幻想だと考えたほうがいい。
世界自体が幻想、という視点ではあなたは気が楽になっても、自分を甘やかしかねない恐れがある。たとえゲーム内にいようが、その中にいるならばそこは「リアル」である。その視点の厳しさがないと、人はダメになる。
だから、ユルいスピリチュアルは危険なのだ。一時の応急処置としてはいいが、春の朝にフトンから出たくないみたいに、ここ一番で厳しい選択をする勇気がなくなってしまう。
今回の事件は、いわゆる個人の「被害妄想」である。
世界が自分を嫌っている、自分なんかどうでもいいんだ、という勝手な思い込み。
まぁ、たまたま悪いことが重なって弱っていたところへのこの事件だったのだろう、と同情的に解釈してあげることはできる。でも、他者を傷付けちゃいけない。
私たちはスピリチュアルで「この世界は幻想」だと学ぶ時、特に気に留めよう。一番幻想視するべきは、世界そのものじゃなく「個人の解釈」なのだ、と。
その解釈は、うまく使えばこの世界を豊かにする。クリエィティブにする。しかし人が弱っている時、苦しい時に歪んだ解釈というのは出やすい。
その時、人間全体としてどう仲間内で寄り添っていくが、が問われる。
●本当の知恵とは——
ただ科学水準や知能水準のことではなく、相互支援力である。
今の世の中、それが育てやすい社会であるとは言い難い。
まさに、今後の課題である。
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