ランキングにまつわるエトセトラ

 朝、ラジオを聴いていたらこんなトークが流れてきた。

 人間って『ランキング』が好きですねぇ、ってお話。グルメランキング・大学ランキング・売れ筋何々ランキング・有名人好感度ランキング……

 何でもかんでも、皆ランキングを気にする。そのくせ、別の機会には「優劣を付けるのはよくない」みたいなことも言ったりする。

 人というものは矛盾した、本当に摩訶不思議な存在ですねぇ……という話だった。



 例えば、絵画。図画工作の時間に描いた絵が、ものによっては「金賞」とか、先生のいいと思ったものは県や全国規模のコンクールに出されたりする。しかし、そもそも絵というものは「横並びにして優劣を付けれる性質のものじゃない」。

 感じ方など人それぞれなのだから、何をもって一位なのか、二位との差は明確に何なのか、などきっちり示せる訳がない。権威ある偉い先生が何かコメントすると、それが真実になる。フムフム、そうなんですね!と。

 ただ単に「絵がうまい」ということなら、目の肥えていない一般人には芸術家より漫画家のほうがうまく見えることがある。

 芸術家の絵の描写が写真みたいに実物に近いということ以上に深い価値があるとしたら、それはもう「わけの分からない」評価の世界になり、素人の理解の範疇を超えてしまう。だから、何が流行るか評価されるかということは非常に流動的である。

 表現者は、(音楽であれ芸術であれ文学であれ)皆それぞれに全力だろうが、何が高い評価を受けるかに関しては時代や風潮・誰がその世界の権威者かということに翻弄される宿命にある。

 ここで私たちが陥りやすい勘違いは、これである。



●ランキングや世の評価=作品の正味の価値そのものをかなり正確に表している



 例えば、あなたが何かで3位だったら、あなたは田中や佐藤ではなく「3位」という名前になる感じ。大げさに言うと、存在そのものが宇宙で3位というイメージ。あなたは笑うかもしれないが、みんな結構気が付かないうちにやっているのですぞ!

 ラーメン名店ランキングで上位に負けたくない、あの店の下は悔しい、として意識して頑張るとしたら、そこからだんだんズレてくる。

 なぜなら、ランキングとは必ずしも「宇宙真理規模でその存在の本当の価値」を示すものではないからである。そんなもの(絶対の価値)などこの世界に存在しないのであるが、そこまで論じたら長くなるので割愛。

 


 当たり前だが、評価する側はされる側本人ではない。

 外から眺められ、その人ではない他人の視点(その他人独自の価値基準)から判断する。その他人の集合体が総合評価を算出し、評価される本人に「あなたの点数と順位はこれ」と突きつけるのだが、当然その評価に「評価される本人の意思、つまり自己評価」は含まれていない。



●一番自分のことを分かっている本人を抜いた、他人の意見だけがその人を決めつける。



 それが、ランキングというものである。そんなの当たり前のことじゃん、とあなたは言うかもしれない。でも、皆実はそこを忘れてランキングを扱っていたりする現実がある。

 この宇宙が陰陽で成り立っているように、すべての物事には「二面性」がある。ゆえに何かに対する評価にも、メジャーな多数決での意見としての評価と、その評価が取りこぼしている反対の視点から見た評価という「二面性」をもつ。

 今言及したのは、「本人のことは本人が世界で一番分かってるのに、まったくその内的世界に触れることのできない他人がその人の評価を全面的に決するということのおかしさ」である。理想的には、本人評価と他人評価がバランスよくブレンドされることなのだが、この世界で実績を挙げたかったら評価される側は「まな板の上の鯉にならないといけない」ケースがほとんどだ。

 もちろんこれは、個をかばった(個の立場を弁護した)視点のひとつに過ぎない。



 確かに「人は究極の客観性には立てない」ということもある。自分では「すごい」と思っていても、他人から見ればそうでない、という場合。まさに「自信過剰」「自己を過大評価」「自惚れ」という現象がそれ。

 それをけん制する意味で、この世界には「他人の評価」というものがある。単なるランキング(評価)という意味合いだけなく、「それを知って己の分限をわきまえることで、他人(社会)から適切な距離を取ることを学び、上手に生きていく」ためのツールにもなる。

 結局、ランキングは使い方次第。

 お酒と一緒だ。適度に楽しむ分には良いが、一線を越えると体に害となり、飲み過ぎることで他人にも迷惑をかける。それと同じで、向上心をもってより良いものを目指す原動力としてランキングを気にするなら良いが、気にしすぎるあまり、本質とはズレたところに意識を注ぐ配分が増えたり、本業に関係ないところで要らぬ意地や劣等感(逆に優越感)を余計に感じたりするなら、残念なことだ。

 乱暴な言い方をすれば、作品なりを生み出したあなたが「納得」すればそれでいいのだ。その上で、作品に他人が良い評価を下してあなたが利益を得るなら、それはもうけもの。あればなおよし、ないならないで別にいいものなのだ。真の芸術家にとって世間的成功とは、グリコのおまけみたいなものだ。

 なのに、そのおまけのほうを本体(作品を作る喜びそれ自体に完結した幸せを得ること)よりも重視し、芸術の本質を見失う者も多い。



 こういうお話がある。

 ある人気小説家が、試しに自分の正体を伏せて、無名の投稿者として小説を賞に応募したりしてみた。すると、見事落選したり、散々な評価をもらったそうだ。「ダサい」「時代おくれ」「表現がくどい」。そこそこ鋭いものでは「今人気の~という小説家のパクリ?」というものも。

 その小説家の売れている本の評価は「レトロ感が良い。郷愁を誘う」。それを悪く言えばダサい、時代遅れ。

「表現が緻密で、情報力の多さはまさにその生々しい場面を鮮やかに想起させる」

 これなども、悪く言えばくどい、となる。その小説家は、この経験を通して感じたそうな。



●すべてはそうだとは言わないが、ある程度この世のでの人気というのは 「ブランド力」によるところが大きい。

 私という「人気作家」の出す作品だから、皆そのイメージで捉えてくれる。つまり向き合う最初から幾分か好意的に読む姿勢があるというアドバンテージがある。

 だがそのブランド力を伏せて発表すると、まったく違う評価が返ってくることがある。無名だとゲタを履かせていない分、シビアな評価になる。どうかすると読者は、最初からこきおろしてやろうという姿勢で読みさえする。

 世間とは気まぐれで、勝手である。だから、人は「知名度やランキングを食べている」という皮肉も言える。



 そんな程度のものなのだから、気にし過ぎるのは良くない。かといって「まったく耳を貸さない」というのもまた、それはそれで独りよがりになる。(ちなみにここ本書ではそれでいいと決めている)

 筆者は、もうきちんと整理した。

 私が一時期、少しだけ有名になり本も出せたのは、雲黒斎(現在改名していると風の便りに聞いた)さんが紹介してくれたという「ブランド力」の後押しがあったからこそだ。今はそれがないので、別に私の人気が落ちたとかではなく「素の本来の状態に戻っただけ」ということだと思っている。

 シンデレラの魔法は解けた。そもそも何も失っちゃいない。もともとないものなのだから! でも、他者の評価がどうであれ「発信したい」から続けているだけ。

 今でも本書を読んでくださっている方は、知名度やブランド力、一般の評価とは関係なく素の私の文章を評価してくれているから来てくださる方だけであろう。そのためにだけ、書ける限り書き続ける。

 世間の評価のためでなく、ましてや人気(ランキング)のためでなく、ただ自分のために。そしてこんな長文を読んでくださる、物好きでマニアな読者のために。

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