反応にまつわるエトセトラ

 とある他人のスピリチュアルブログを読んでいて、気になる一文があった。



●大事なのは、『反応しない』こと。



 そう聞いて特に疑問を持たない人も多いと思う。

 そうね、いちいち反応しないこと、大事よね。分かる分かる……で終わり。

 でも、筆者は気になるんですよね。日本語をきちんと使うことの難しさが、ここにはある。

「(いちいち)反応しない」という言葉の使い方は、厳密にはおかしい。

 日本の国語教育のテキトーさのせいもあり、一概に本人たちのせいばかりでもない。それを証拠に、「反応」という言葉を辞書で引いてみよう。



①ある働きかけに応じて起こる相手の変化や動き。手ごたえ。 「相手の-をみる」

②刺激によって生じる生活体の活動の変化の総称。 「生体-」「薬物-」

③物質が他の物質との相互作用により組成や構造などを変えること。 「化学-」


【大辞林 第三版】



 ほとんどの人は、今の解説を読んでも面倒くさいだけだろう。何で、簡単な言葉をそんなに難しく言うかな? 反応は反応、でいいじゃん!って。

 でも、時には難しく言い換えることで「自分がちゃんとした意味で使っているか」を知ることができる。①~③を読むと、共通するある普遍的付随条件が見つかる。

 反応というものすべてに、絶対に当てはまるある「お約束」がある。



●ひとつに決まっていて、選べないこと。



 国語的に反応というのは、人間が顕在意識を介さず快速列車のように飛び越えスピード感をもって行われる、その瞬間にはじき出される「ベストな行動」である。その生物がその時点で考え得る「最高の一手」を打つことである。

 道で転んだら、反射的に地面に手を突く。上からものが落ちて来たら、とっさに頭をかばう。これらは、「反応」である。いちいち「やらなきゃ」と考えてからやっていたんでは日常が成り立たない種類の決断のことである。考えていたら間に合わん。

 ひどいたとえだが……



●「あ、転びそうだ!」


 → 「まずいぞまずいぞ、地面が近付いてくる!」


 → 「なんか手を打たないと、まずいべ?」


 → 「とりあえず、今この状況でできる最善の策は、両手を地面につくことじゃないか? 手はすりむくかもしれないけど、手で顔や体をかばわないでより痛い目に遭うことは避けられるべ?」


 → 「よっしゃ、手を地面につこう。脳センターより各部署に緊急通達!」



 ……と、こんな感じで決める人はおらへんやろ!

 あと反応という言葉は、「反射」という言葉とも親戚である。

 根本的な意味は、ほぼ同じである。やはり、ある現象に対して、自動的に起きる、ひとつに決まりきった動きのことである。

 小中学校時代、膝を叩いたら足がひとりでにポーンとあがる実験を、保健体育でやるでしょう。膝蓋腱反射、という言葉で言われる。

 つまり、ある現象(起点)があって、意識(判断機能)という中継ぎを通って、反応という名の行動に帰結しているわけではない。真ん中の「意識」をすっ飛ばして起きるのが「反射」であり「反応」である。

 つまり反応というものはその瞬間において常にひとつに決まっており、選択肢などあるようで実は存在しない。



 我々の勘違いは、反応ということに関しても「自由意思による選択」というものが間違いなくある、と考える点である。意図的に「反応しない」という風に。

 今、反応を選べるというのは勘違いだと言ったが、「勘違い=良くない」 というのは当てはまらない。この世界で生きるには、その勘違いをしていていいのだ。

 その「夢」の中で全力で生き、最後まで夢の中にいられるなら、それはそれで人の人生としては「成功」だ。

 なのにそれが大成功か、大失敗かヒヤヒヤの賭けになるのは、普通に提示される日常に生き切ればいいのに、「神」「宇宙」「根源」「真理」といった、目に見えず証明できない分ケンカの種にもなる「精神世界」に手を出すからである。

 だから、今回の記事も本来書かなくてもいいことではある。



 人間の意識システムには、ある絶対の法則性がある。

「その瞬間、その人物にとって最も良いと判断された行動のみしか取らない」ということ。

 だから、自由などないんである。誰も、実は自分の力でなど選んでいない。

 目の前で起きている出来事の情報を読み取って、それに対してこれまでの全経験と全知識と教訓集を引っ張りだしてきて、ひとつの結論(行動)が計上され、実行に移される。

 よく指摘されるが、あとあと振り返って「あれは間違いだった」と思えることがあることから「常にベストを選んでいるとは言えないのでは」と言う人もいる。

 おいおい、頭悪いね。それは幻想である「時間の流れ」という枠の中である時点とある時点を比較することで確かにそういう感想を持てるが、筆者が言っているのはベストな選択しかできない、ということだ。ここまで言ってもなお意味が分からない人は、悪いこと言わないから本書を読むのやめなさい。あなたにはまだハードルの高い教材のようだから。

 我々ができる勘違いは、「反応にすぎない(必然にすぎない)自分の言動を、自分が選んでいると思い込める」点である。でも、無粋なことは言ってはいけない。砂場で砂のお城を作り上げた子どもに、それはただの砂で、時間が経って明日にでもなればもう残ってないよ、とバカにしても意味がない。

 おままごとで砂場で泥団子を作っている幼児に、「それ食えないけど」なんてバカにするのも、変でしょう。



 だから、「反応しない」なんて言葉が世間でまかり通っても別に大した害はないが(頭痛が痛い! と同じレベルでヘンだ)私などは思わず言っちゃうのである。



●反応しない、なんて不可能だよ!

 反応という言葉自体が、そもそも絶対に決まっていて、ひとつしか起きないことを指すんだから。あなたには、選択権はないんだよ。

 反応とは、選べるものじゃないんだよ。決まっているんだよ。



 化学反応が、薬品や成分の気分次第で変わったら、大変だ。

 水素分子と酸素分子が合わさって水になるが、今日は硫酸の気分だから硫酸!なんて反応を選ばれたら、人間側は大変である。

 ある瞬間まで人生を生きてきた人間のその時の反応は、絶対に決まっているのである。それまでの経験や感情の集大成の最高決議しかできないんだから。

 ちょっと分かりにくいのは、自己破滅的な行動。

 例えば自傷行為。自分がわざわざ損をするような行為。でもそれもやはり、その個体が「脳内協議の結果、それが一番自分にとってはメリットのある行為だと判断した」結果なのである。外野からは一見損な選択のようでも、実は相手視点では最高の利益を上げ得る絶対選択なのである。



 以上!

 結論として、意図的に「反応しない」などということはできません!

 できたなら、それはできることが決まっていた。そして反応してしまったならそれは失敗とかではなく、あなたにはそうするしかなかった。

 だから我々が常日頃できることとしては、ただ反応の「質」を高めることしかできません。しかもその時だけの付け焼刃の努力、本番のその瞬間の頑張りはほぼ意味がありません。

 スポーツや演劇と一緒で、その瞬間を迎えるまでに積み上げたもの(練習・訓練・稽古)が物を言います。

 だから、私たちが反応の質を高めるためには、普段の生活ぶりが大事なんである。

 禅問答なことを言えば——



●「反応しない」ということもまた、反応の一種だということ (笑)。

 


 起きることはすべて決まっている。

 それは、知的生命には「反応」という形、リアクションという形で現れ、ドラマが進行し歴史となる。現象面においては「反射」となり、物理宇宙で起きる現象は紡がれていく。

 意識と物理の糸の絡み合いは、必ずひとつだけの答えを出す。必ず、そのことが起きる。それが、起きることは決まっているという所以である。

 でも、ある意識レベルを突き抜けないと、この事実は「高価すぎる、扱いきれないおもちゃ」となり、その知識がかえって重荷になったりする。だから、きちんと理解できる時が来るまでは下手に知らないで良かろう。もし時ならぬ時にこの記事を読んでしまったあなた、少しでも早く今読んだ内容を忘れなさい。

 あなたの人生シナリオがうまく運ぶようなら、「自分、よく頑張ってる。人生の選択もうまくやれてきた。よく成果を上げた」と人生の最後まで思えたほうがいいかとも思う。

  筆者の言うようないらんことは、多くの一般人は知らない方がいいだろう。 

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