この世界は、あなたはどこへ向かうのか
『怒り』という日本映画を鑑賞した。内容は、重いの一言。
でも、なぜか見る気にさせる。そして、目を背けようとする気持ちよりも焼きつけようとする思いが勝り、刮目する。
鑑賞後の後味が重くのしかかる作品だけに、捉え方次第では今後生きる上でのものの見方、感じ方への「肥やし」にもなり得る。
これを正面から鑑賞するには、「手強い相手と斬り合いするので、勝つにしても自分もある程度斬られる覚悟が必要」みたいな感じ。でも、刺し違える価値は十分にある映画。
ある凶悪殺人犯が、警察に捕まらず逃走。
その男は、逃亡中に顔を整形した可能性がある。
この物語は、凶悪事件発生後、身元不詳でフラリと現れ「もしかしてコイツが逃亡中の犯人?」と疑われる3人と、彼らをとりまく人間たちとの間に起きるドラマを描いている。
もちろん、犯人は一人なので、3人のうち一人が「当たり」で、残り二人は関係ない。ただ、その3人の人物の周りの登場人物が「もしかしたらこの人が……?」という疑心暗鬼の思いが、人の信頼というものを揺さぶる。
信頼したい。でもできない。幸せになりたい。でもなれそうもない。
この世界を何とかしたい。でも、できない。できないという以前に、何をどうしたらいいのか分からない——。そういうやるせなさが「怒り」となって、それぞれのキャラが爆発させる。
その爆風は、映画を見る者を巻き込み、決して無傷では帰さない。でも「人とはどう在るべきか」をこの生き難い時代に模索する我々には、それは「心地よい」痛みとも言えるのだ。
考える方向性としての「光」を与えられるのだから。つかむべき一本の「
※以下の文章には、ネタバレが含まれます。
絶対に前情報なしで鑑賞したい、というこだわりのある方は、ここまでで。
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この作品は、3つのドラマのオムニバス形式になっている。
①千葉編 (渡辺謙・宮崎あおい・松山ケンイチ)
②東京編 (綾野剛・ 妻夫木聡 )
③沖縄編 ( 森山未來 ・広瀬すず)
この三つから構成される。
うちひとつのエピソードに本物の犯人が紛れ込んでいて、残りふたつの物語は身近な身元不明の男を「殺人犯ではないか」と疑うことで起きるドラマを描いている。ただし実際違ったと分かった時には、「ああ違ったか良かった」ということではもう済まない。
この映画では、3つのドラマそれぞれの「怒り」があり、またどれにも共通するのは——
●理不尽な、納得いかないやるせない、外部の何かに対して怒る単純な「怒り」
●信じてやれなかった、道を誤った、自分が情けないなど自分へ向かう「怒り」
広瀬すずの役どころ(泉)は、沖縄で米兵に乱暴される。
その現場を、実は最近知り合ったバックパッカーの田中(森山未來)は見ていた。
最初、彼は泉を助けられなかった理由を「恐怖で、体が震えて腰が抜けて何もしてやれなかった」と、自分を責める(ある意味人としてまともな)告白をする。
しかし、最後彼は本性を表す。
勇気がなくて何もしてやれなかった、はウソ。彼こそがいわゆる真犯人で、気持ちさえ向いたら殺人さえする男である。怖くて手が出なかったのではなく、助ける気自体がなかったからなのだ。
「米兵に犯されてやんの。マジウケる。自殺とかしたらマジ笑える」
実は、ザマァ見ろと泉をあざけっていた。なぜ、彼がそういうホンネなのかの分かりやすい説明はない。ただ一点、かすかなヒントはあった。
米兵に襲われる前に、泉は田中と飲み屋で談笑していた。会話の中で、泉の母の話になる。
「母」としては好きだが、女としてはキライだ、と吐き捨てる泉。そこで、田中が聞く。「お母さんとは、ちゃんとそういう話しないの?」
「しない。もう、諦めてる……っていう感じかな」
恐らく、ここでスイッチが入った。
田中は人生でずっと見下されてきて、その「怒り」が飽和した状態だった。
それはもう、派遣会社の仕事で炎天下の街をフラフラになって歩いて、腰を下ろした場所にあった家の奥さんに、親切心で「冷たい麦茶」を出されたくらいで殺意を抱くほどのもの。常識感覚では理解しづらいが、それすらも彼の基準では「見下し」になるらしい。
のどが渇いているだろう、と麦茶を出したことで殺されるなど、無茶苦茶だ。だから飲み屋での泉の言葉は、田中にとって「育ててくれている感謝すべきお母さんへの見下し」と判断されてしまったのだ。
この世界で生きる怖さは、ここにある。
●知らない他人の、「踏んではいけないツボ」など分からない。
我々は、知らない他人に対してはどうしても一般常識的な対応をするしかない。でもそれが不幸にも相手の逆鱗に触れる ケースであった場合に、悲劇が起きる。
禁煙の場所で、吸わないでと注意したら逆ギレされて刺された。
いかにも体のしんどそうな老人に、電車で座席を譲ったら「ワシはそんな年寄りじゃない」と逆に気分を害された。「アンタにはそんなにワシがヨボヨボに見えるのか」とイヤミまで。
この映画のケースで、泉は話している相手が「人を見下すことに異常に敏感で、殺意を抱くほどに嫌がる精神破綻者」であることをまったく知らなかった。だから、まさか自分の何気ない言葉で、相手の心の中で激しい化学反応が起こっているとは知らなかった。
この時、田中は泉を積極的に殺そうとは思っていなかったが、米兵に強姦されている泉を見て「そうなって当然」と思った。この体験はある意味、女性にとっては「殺される」ことに近い。だから、これでいい——
泉は、なぜ目撃者である田中に助けてもらえなかったのか。
知らずに、相手の地雷を踏んだからである。
でも、もちろん泉は何も悪くない。悪くなくても、巡り合わせによって「相手の闇を知らないことで起きてしまう悲劇」に出会う。
それは、その人がまっとうに生きているとか、素晴しい人であるということに関係なく起きる。それらのことが、なんら「不幸な出来事の軽減」には役に立ってくれないのがこの世界の辛いところである。
だから私たちは、考え続ける。
このようなリスクに溢れた社会。まるで幸せに寿命まで生きることが難しいギャンブルのような世界。自殺などしない以上、生き抜くより他しょうがない。
生き抜かねばならないなら、この「怒り」をどこにぶつけたらいいのか?
どこに向かって行くべきなのか。そして向かった先に、希望はあるのか——
尾崎豊も、きっとそういうことを考えたのだろう。(最後は残念な結果だったが)
映画のラストは、信じていた田中に正体を明かされ、また自分の何より辛い経験のことをズタズタに言われ、そして自分を守ったせいで殺人犯となった友達のことを知った泉の絶叫で終わる。
その絶叫の先は、観客の想像に任されている。その先を作っていくのは、私たちひとりひとりである、とも言えるのである。
この時代、決して他人事ではない問題なのだ。
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