心は無くしたりしない

 アニメや特撮ヒーローもののセリフでよくある表現。

 平和を踏みにじる悪の組織の手先に対して、次のように言うことがある。



「愛の心を無くしたお前たちに、負けはしない!」

「お前たちに、人の心というものはないのか!」



 この表現に、筆者などは違和感を感じる。

 普通には、誰もおかしく感じないかもしれない。なぜならこの世界では「愛がない。愛が足りない」とか「愛を忘れた者」「心を失ってしまった」「お前には人の心というものがないのか」という表現が抵抗なく使われているから。

 それで皆さんも慣れているので、「愛がない」「心がない」とかいう状態が実際にあると考えている。あれ、おかしいですね。流行りのアイドルの歌が歌ってますよね、「この世界には愛しかない」って!

 皆さん、そういうの大好きじゃないんですか?



●相手が「心を失っている」「愛を忘れている」というのは、第三者の勝手な感想にすぎない。実は悪や冷酷さ、残酷さとは心を失った結果ではなく、心があるからこそなるのである。むしろ激しい心の化学反応が、結果として人を傷付ける方向に向いたものである。



 方向性が違うだけで、感情としての質は善(愛)と同じである。

 善と悪、愛と憎しみ(あるいは無関心・恐怖)は、根は同質である。

 イヌ科かネコ科か、というレベルでは同じ仲間。ただ、柴犬かプードルかセントバーナードか、というレベルで違うのが善悪であり、愛と憎しみである。

 心を無くした、愛がないと表現される状態というのは、実は無くしていたりなかったりするのではない。

 むしろ、心(感情)がバリバリにある。ただ、その人物を世の基準で「健全」に育む方向での外力が加えられず、むしろ歪んだ方向に力が加えられたため、心の出方が狂ったものである。



●実は中途半端な善人よりも心が(感受性が)豊かなのが、悪人である。

 心が強く感じる体質だから、歪んでしまった時にはネガティブエネルギーの出方が人一倍強くなってしまうのである。



 確かに、簡単にネガティブに陥る弱さはあるが、実は優しくて真面目だからこそ、理不尽や辛さに納得できなかった時の反動がすごいのである。たいがいは妥協してあきらめるから。

 同じストレスを受けても、問題を起こさない人と起こす人がいるでしょ?

 普通、問題ありとされるのは後者のほうだ。ニュースで殺人事件の報道を聞いても、一般人の感想は「そりゃあ私も殺してやりたい、くらいに思ったことはあるけど、さすがに実行はしないなぁ」であろう。言い換えると、実行しない自分は人間として立派で、実行してしまうようなのは人として「下の下」ということだ。

 だが、その判断は幼稚! 前者が後者より人間として優れている、とかメンタルが強い、ということでもない。心が鈍いからこそ、感じ方が少ないからこそ我慢できたり、スルーしたりができるだけだから。



●一番偉いのは、負の感情をめちゃくちゃに感じてなお、逃げずに向き合い乗り越えられる人。(勝利者)

 二番目に偉いのは、めちゃくちゃに感じて逃げずに真面目に挑んでみたが、負けてダークサイドに陥った人。負けはしたが、戦ったという実績はある。(敗者。悪人)

 三番目は、あまり感じないので、大して問題と捉えることも生じず、ダラダラ人生をやり過ごせる人。死ぬまで大きな問題も起こさない代わりに、無味乾燥な人生。(表面の善人・たいがいの一般人が該当)



 善側、正義側は実は悪側より感受性が鈍いことが多い。

 だから、悪がなぜあんな行動をするのか、理解できない。

 だからアンパンマンも、「やめるんだ、バイキンマン!」しか言えない。そしてお決まりのアンパンチにバイバイキーン。

 この繰り返しでは、永遠に終わらない。

 アンパンマンが、自分は正しく(善)、悪いことをするバイキンマンがただ間違っている(悪)というスタンスを一度捨てないと、相手を変えることはできない。

 理解できないので、話し合いが成立しなさそうなので、倒すのである。

 正義側は、勝手に「相手が謙虚に和解を求めて来たら、すぐにでも友達にしてあげる」という姿勢でいつでもウエルカムなのをアピールするが、相手からしたら「コイツらに話しても理解してもらえん」とあきらめているのである。

 もちろん相手が悪いが、善側がそれを言っていたら永遠に悪は屈服しない。こちらが正しくても、色々譲らないと世界は平和にならない。

 譲るというのは、悪事を認めてやるとかそういうことではなく、どこまでも話を聞いてやるということである。折り合いがつくまでさじを投げないことである。

 そのためなら、下手にも出る、ということである。



 悪を理解できない善側が、「心を忘れた」 「愛をなくした」と指摘するのである。悪は心を忘れてなんかいない、忘れていないからこそ何かが「ゆるせない」し、自分が損をし不名誉を被ってでも「意地でもこうしてやる」ということが出てくる。

 強い愛と強い憎しみは、根が同じである。どちらも、激しい情的エネルギーがその正体である。ただ、その向かう方向が違う。

 上位次元においては、その方向性の違いなど概念にないので問わないし、大して気にもしない。それでいちいち人間の価値などランク付けしない。

 ただ、空間という箱の中で自他を理解し、なおかつ優劣や善悪などを「判定」できる我々だけが、愛を半分に分けて「素晴しいもの 」「よくないもの」と差を付けているにすぎない。

 その意味では、「世界はすべて愛なんだ」という言葉は、そのとおりである。

 しかし、正味の人の好き嫌いを現実的な基準とした場合、「すべては愛なんだ」 とは言いにくい。ってか、災害や事故で親や子どもを失った直後の人に「すべては愛です」とホンネで言えたら、大したものである。

 自分の理解できないものや悪に対して、「(人としての)心がない」「愛を失っている」と口にするのは、知恵深くない証拠である。人類歴史始まって以来、誰一人として愛を失ったことのある者はいない。心を無くした、忘れた者もいない。むしろ、片時も忘れないからこそ、時として感心できない方向にも突っ走ってしまうのだ。

(揚げ足取りを防ぐためにいうが、薬や化学物質・特殊で過酷な状況下における精神異常・心神喪失状態を除いた話)



 善が悪を変えていくためには、善が「自分が正しく、相手はおかしい(異常)」と考えたら、負けである。確かに悪いのは向こうであるが、より優れた立場の者は相手より損をしてでもへりくだる必要がある。

 将棋でも、名人が挑戦者と対局する時には、飛車を落としたり角を落としてやったりする。ただ、向こうが悪い、向こうが謝るべき、反省すべきでは解決しない。

 粘り強い対話が必要だ。決して善が上から目線を使わない土俵で。

 常軌を逸した行動を取る人に、「あなたには愛が(心が)ない」との指摘は的外れである。本当になかったら、「どうでもいい」と何をする気にもならないはず。悪を行う気力すらも湧かないはず。

 我々が良いとする「正しいことをする情熱」も、「衝動的に悪を行わざるを得ない」情動的力も、どちらも顔は違うが「人を何かの行動に駆り立てる原動力」である点では兄弟である。

 人を守る愛と、犯罪で人殺しをする情動的力を同じに語るな! と腹の立つ人もいるだろうと思う。でも、そうやって明確な「差別」をし、犯罪者を別の星の宇宙人みたいに考える限り、いつまでたっても人類は次のステージには行けない。



 ま、大きな視座では行けなくたってどうということはないんだけどね。

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