まどんなのララバイ

 マドンナ(Madonna) は、「ポップスの女王」の異名を取る洋楽歌手。

 彼女がデビューした当時、筆者は中学生になったばかり。

 当時は、ダブルカセットで「ダビング」とか、FM放送から曲をテープに録音する「エアチェック」なるものが流行していた。アルバム(当時CDはまだ普及しておらず、黒いレコード盤)を買う余裕のない者は、「FM STATION」なる雑誌を買い、お目当ての曲が流れる時間帯を調べステレオデッキの前で録音ボタンを押す準備をして構えていた。



 当時チューボーだった私に、マドンナは理解するにはちと早すぎた。

 とりあえず流行っていたため、見栄もあってマイベストのカセットに入れていた。

 当時の中学生は、それを貸し借りし合って、いかに自分の選曲センスがいいかをアピールしているところがあった。背伸びして洋楽を聴いていたが、本当にいいと思ったのはワム!だけだった。あとは、良さがよく分からなったが友達関係のために聴いていた。

 当時は、マドンナが後にもずっと活躍し、不動の地位を築くとは思わなかった。



 私が高校生時代、学校の英語の勉強では「しゃべれない」と思い、外人講師だけが相手してくれる英会話学校へ通った。そこでは月謝こそ高額だったが、先生とこちらが一対一、多くても一対二で教えてくれた。

 そこの講師は、日本在住が長く日本を良く知っているとか、日本語がある程度分かるとかそういう外人は少なかった。すごい時には、数日前日本に来たばかりとか、日本のことはほとんど知らないという先生も少なくなかった。

 英会話初級者には、日本語が一切分からない外人はつらい。(こちらの訓練にはなるが)特に中年のオバサン受講者などは、苦しい時の日本語頼みができず苦労していたように思う。

 時として、当時高校生だった私はそういう年長者とペアで授業を受けることもあった。今から語る話も、そんな「あるオバサンとペアになった英会話レッスン」での話である。



 その日の講師は、20才そこそこの若い白人男性だった。仮に名前をデイビッドとしよう。その日の英会話テーマは、「好きな映画は何か」。

 筆者は、あるオバサンとペアで授業を受けた。私は有名なハリウッド映画を挙げてそこそこ意思疎通が出来た。それは洋画で、外人ならよく知っているものだから。

 隣のオバサンは、正直すぎて、難しい話に挑んでしまった。邦画の「男はつらいよ」を挙げてしまったのである。外人講師の眉間にしわが寄った。「ホワット?」

 オバサンは、「寅さんという男性が主人公で、旅先で女性(マドンナ)を好きになるが、最後はフラれてしまう」 という定番ストーリーを、たどたどしい英語で説明した。

 聞けば聞くほど、外人講師の頭にはクエスチョンマークが飛び交っているようだった。私は、横で他人事のようにそのやり取りを聴いて面白がっていた。

 デイビッドは、オーノーという感じでこう言った。



●なぜ、その寅さんという男性は、マドンナと知り合いになれたのですか?

 マドンナは、そうしょっちゅう日本へ行きますか?



 もちろん、デイビッドは英語でこれを言っている。

 オバサンは、デイビッドが一体何に引っかかているかを分かってないようだった。

 私は説明してあげてもよかったのだが、基本的に日本語は使わないでという方針があったので、英語で説明しきれる自信のなかった私は黙っておいた。

 寅さんの映画で、彼が毎回好きになる女性の役どころを『マドンナ』と呼ぶ。日本では、あこがれの女性の代名詞として「マドンナ」という言い方をすることがある。

 日本人でさえ、もう若い人には意味が分からない時代になってきているのに、ましてや外人に分かろうはずもない。外人に「マドンナ」と言えば歌手のマドンナを連想しても責められない。ディビッドは授業の最後まで、マドンナはあの歌手のマドンナだとしか考えられなかったようだ。

 外人にとってマドンナ(Madonnna)というのは、大きく一般的には聖母マリアのこと。そうでないなら、たいてい歌手のマドンナのこと。

 夏目漱石の小説「坊ちゃん」にもマドンナと呼ばれる女性が登場するが、これなども下手に英語で説明すると外人に混乱を与える。

 日本では、あこがれの女性のことでも「マドンナ」と広く使うのだということを外人に分からせないと、このコミュニケーションは最後まですれ違いで終わる。

 ちなみに、「ま・ど・ん・な」と日本語調で言っても通じない。あえてカタカナで書くと「マッダーナー」になる。

 マクドナルドも、「マッダーノー」と言わないと、相手はピンとこない。マックのクも、本当にかすかにしか発音してない。

 もう、和製英語ではそこからして通じないことも……(汗)



 皆さんは、普段このような「言葉が通じないもどかしさ」をあまり味わうことはないだろう。だいたい、同じ日本人同士の環境で、言葉は通じるはず。

 でも、誤解やすれ違いは日常的にある。言語上の理解は完璧でも、人間関係はうまくいかない。

「誤解」というものは、何も先ほどのような「言葉上の認識の違い」だけではないのだ。内的世界や、物事の認識の前提が違えば、容易に「苦痛」は生じる。

 文化の違う外人と意思疎通が難しい、というのの別バージョンを、私たちは当たり前に身近な人々とやっているのである。

 たとえば「この分からず屋!」というケンカ文句がある。親子喧嘩などでよく使う。言っているほうは、相手が「話の分からないやつ」と考えている。まぁ、自分の立っているスタンスや考えのほうが「正解」だという前提があるんですな。

 でも、相手だって基本「その人なりに一番いい答え」を出そうとしてるのである。その良かれと思って考えた結果が、たまたまあなたの望みと違った。



 筆者は小学生時代、芸能界の「子役」で有名になりたくて勝手に芸能事務所に応募した。書類選考が通ってしまい、親にバレたところ、全力で止められた。

 当時はムカついたが、今となってはそれでよかったと思う。言葉上の理解の問題がなくてさえ、すれ違いは起きる。

 今という時代は、それがどんどん起きている。

 皆さんの交友関係は、個人差があれど少なからず変化しているはずである。

 なぜ?

 その強さと真価が問われているのだ。

 誤解やすれ違いは、ひとつの「試験」である。それで二度と会わなくなる程度なら、かえって壊れてよかった。

 それでも、紆余曲折を経てでも、結局ゆるし合ったり、折り合いをつけたり。そうしてでも付き合いたい相手、それが親友であり、盟友。

 たとえ宗教やスピリチュアルの中でできた関係でも、案外脆いもんですよ?



「エゴ」 という自我認識システム。「私が」が主語でしか考えたり体験したりできない宿命を背負う人間。もう、ややこしいドラマを生じるのが前提のスペックである。人間ぶつかりあってなんぼ、と言っていいくらい人との関係とはややこしい。

 でも、それでも人間が好き! 人として生きることが好き! そう言えてこそ、この世界は俄然楽しくなる。

 間違っても、どこぞの完璧スピリチュアルみたいに 「この世界から一切の苦痛を無くす。愛におけるパーフェクト・ワールドを作る」みたいな考えはやめたがいいよ。そんな世界がいいなら、「個」という概念自体存在する必要が無くなる。

 この世界から「問題」が消えてなくなった時こそ、「自他」というシステムが消える時なのだから。



 この世界を皆さんが言う所の「愛」だけにしようとする動きは、時間を止める装置を作るようなもの。

 時間を止めて、若い女性にあんなことやこんなこと……(ムフフなこと) をしようと考えたスケベ博士。装置が完成して、いざスイッチオン!

 実験は成功。皆「ピタッ」 と止まった。しかし、博士自身も「ピタッ」と止まった。それじゃあ意味ないでしょ!

 この世界を愛(良いこと)だけにしようと企てるのは、それにも似ている。

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