地球の総人口は一人
あなたが道を歩いていて、思わず石や道のくぼみに足を取られて転んだとする。
コケた時、人間は反射的に頭(体)を守ろうとして手を地面につく。
室内ならまだいいが、外はアスファルトや砂利など、肉体にやさしくない。手をついて、手の皮がむけたり切り傷ができて血が出たりするだろう。
これが自転車での転倒なら、骨折さえ可能性として出てくる。
転んで、体全体を守ろうとして手をついた結果手をケガする時。手に、何か落ち度があっただろうか?
手自体は、何も「自業自得」と言える原因を作っていない。転んだのは「足」だし、もっと責任を追求すれば行動を判断して行わせた命令機関「脳」の判断ミスだ。全部を統合し行動を司る機関にスキがあったので、転ぶという事態になった。
手は、自身は悪くないのに体全体を守るという「全体目的」のために犠牲になったと言ってもいいくらいだ。
でも、そのことをもって「手が可哀想!」とまで言う人はいない。
その日一日、手に申し訳なく思いジュースやビールをかけていたわってあげる人はいない。ある意味、体全体があなたなのであるから、どこが原因でケガして関係ない部位が損傷しようが、それで自分の体を責める人はいない。
手に持っていた重い荷物が、うっかり手から滑り落ちた。で、足の甲にそれが落下し直撃。あなたは、足を内出血する。
それは、手が悪く足には何の落ち度もないのだが……体全体を取り仕切るあなたの意識 は、ただ「自分の不注意で痛い目に遭った」と思うのみで、ことさら「手が悪い」「足に謝れ」などと考えることはない。それは、考えるほうがヘンだ。
最近、やれどこの誰が事件や事故・災害で亡くなった、という悲しいニュースが多い印象がある。
大きいのでは地震やテロ。台風やそれにともなう大雨など自然災害。人的なものでは、環境不備や監督しきれなかったことから子どもが命を失う痛ましい事故、虐待や自殺。富が一極集中し、大多数の平均的「貧困」を生んでいる
また、一部の極端な思想や精神状態に陥ってしまった人の犯行に巻き込まれてしまった、ただそこに居合わせただけの、何の罪もない一般の人もいる。
このようなことに無縁でいられなかった人々、何らかの形で関わった、巻き込まれてしまった人たちは考える。「なぜ、私がこんな目に遭わなきゃいけないのか」「私が、何か悪いことをしたのか?」
自分の直接蒔いた種ではないのに、他人の勝手な行動の影響のあおりを食ってしまったような人は、先ほどのたとえ話で言う「手」と同じ立場である。
手は、何も悪くない。でも、体全体が「転ぶ」という事態に直面して、体全体(意識)からの要請として、手がとりあえず全体を守るために最前線へかり出された。
現在、世界の総人口は78億だという。それを一人ひとり単位で人間を見ていったら、この世界は「理不尽な世界」と見えることになる。
だって、自分と直接関係ないことでも(バタフライ効果のように)遠くの他人、たまたま近くに居合わせた人の行動によってまったく思いもよらない悲劇に巻き込まれることがあるのだから。
でも、人類全体が実はひとつの大きな 「生き物」 だと考えたら?
細かく一人ひとり分かれているのは実は全員は繋がっていて、肉体のそれぞれの部分のように役割と分担だけが違うのであれば、足がすべったから、その失敗をなんとかするために落ち度のない「手」が地面に叩きつけられるというのは不思議でも何でもない。
●地球の総人口は78憶ではない。『一人』である。
だから、人類全体規模で物事を考えていくと、自分からは遠くて縁がない部位のとばっちりが、自分に来ることがある。逆に、自分が失敗したことで、自分と関係ないどこかの誰かがその衝撃を受け取ることになることがある。
転んだら、足自身に何とか挽回する責任があるが、転んで足が地面から離れてしまえば、いくら自分で責任を取りたくても足自身にはどうしようもない。次善の策として、手が頭や体を守るために犠牲になる。それを「脳」が承認する。
この宇宙では、人間は「実は無数の全体でひとりのくせに、細分化(個別化)した一人ひとりが、自分ひとりで完結した存在だと思いこんでいる」そういう遊び場である。勘違いするために来たのが、この世界である。
人類全体がひとつの体をもつ一人の人間だと例えたとして、この世界では全体を俯瞰する人間で言う「脳」のようなものがない。宗教ではそれを神だと捉えるかもしれないが、一応無神論の一般目線で。
そういうのはなく、一人ひとりが独立した意識とアイデンティティをもち、責任もそれぞれに問われることになっている。実はそれが錯覚で、皆それぞれ手や足や口であるようなもの。
口が痛んだ食事を食べれば、関係ない胃や体全体が、不調をきたす。足をケガすると、体はどこかへ遊びに出かけたくても、家で安静にしてTVでも見とくしかない。
●地球の人口は一人、だという視点では、この世界から一切の理不尽はなくなる。
確かに、なにがどうなって……という細かい経緯までは分からないが、あなたに起きるすべてのことに究極な意味で理不尽はない。
だって、あなたは全人類の部品の一部として、負うべきものを負っている上でそうなっただけだからだから、この世界において、究極的な意味で「他人事なんてない」のだ。
連日、悲惨なニュースが踊る現代。
今日は、ウチの一家は平和だった。みんな事故も病気もなく、無事だった——
それで胸を撫でおろし、一日一日の歯車としての人生を生きているかもしれない。
全体がひとつの有機体、だとわからないと、個人でスピリチュアルなどやって、自分がとりあえず幸せになったら、外の世界がどうでも自分はこのレースで逃げ切れる(自分の関わる範囲では平和で、幸せな人生で終われる)と考える。
愚かな。
この世界のすべての事象は、あなたと無縁ではない。
地球で言うと日本の裏側に当たる南米で起きたことも、あなたに何らかの影響はある。明日、何が起きるか分からないのが、人口が増えすぎ誰が何をするかの可能性が広がりすぎたこの世界の、難しいところである。
だからあなたに今から何をせよ、と言いたいわけではない。
せめて、意識の片隅にでも「すべての人間は自分と無縁ではなく、好むと好まざるとに関わらず全体の責任を等分に負う」ものなのだ、ということを思ってほしい。
すぐ行動を起こせなくていいから、認めてほしい。
そして、静かな「覚悟」をもってほしい。
何も、毎日危機感をもって、構えてピリピリして生きろと言いたいのではない。日常において楽しんだらいい。人生を謳歌すればいい。
ただ、悲しいニュースや本当にこのままでいいのか日本?と考えさせられることに関しては、ちょっと意識を寄せてほしい。「どうにもならない」「仕方がない」ではないし「政治家や頭のいい人が勝手にやること」でもない。人の子が死んだら、もちろん我が子のように悲しむことはできないが、それでもちょっと黙祷してあげてほしい。(もちろん自然にできればでいい。強制はない)
●皆、何らかの形で、宇宙の責任を分担してくれているのである。
そしてあなたも、実は外の責任であるはずの何かを立派にしょって立っている。
それを皆が分かった時。世界の総人口が実は「大きな一人」だと分かった時。
最後そこに残るのは、ただ「感謝」である。
パンドラの箱の中に最後に「希望」が残ったように。
その時こそ、新しい精神文明のステージの幕開けとなるだろう。
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