上位次元はこちらの理解を超える世界

『僕だけがいない街』 (藤原竜也:主演)という日本映画がある。

 感想は一言、有村架純は何を言ってもいるだけでゆるせる。(笑)

 映画だとちょっと昔のものになるが、最近ではNetflixで連続ドラマとしてよみがえっている。ただし文字通りNetflix契約してる人しか基本見れないと思うので、そう浸透していないかもしれない。筆者はそちらも鑑賞した。

 以下の記事は超絶ネタバレなので、それでも構わないという方はどうぞ。



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 この映画がダメだという人は、大きく分けて次の二点を挙げる。



①マンガ原作との相違。映像化にあたっての原作派の不満。

②ラストがハッピーエンドではないことへの生理的違和感。



 筆者は、原作(漫画)未読である。

 他の方のレビューを見ると、原作の「肝心な部分」をはしょっており、さらにオチまで変えているらしいので、原作に馴染んだ方には相当違和感があるのだろう。

 そのオチを「最後に主人公が死ぬ」ということにしたことで、人間一般がもつ感覚を、ちょっと逆撫でしたのだと思う。そのフツー感覚(皆がそうあってほしいと望む感覚)とは——



●真っ直ぐな心で精一杯頑張ったことは、それなりに報われてほしい。いや、報われてしかるべきだ。



 よく聞く、『あきらめなければ、夢はかなう!』みたいな感覚かな。

 藤原竜也演じる主人公は、漫画家志望だがあまり売れていない、冴えない男。でも、その彼には実に特殊な事情があった。

 彼の身近な誰かが不幸な目に遭う(死ぬ) 成り行きになる時、時間が巻き戻るのだ。時間が戻った時に行動の選択をし直すことで、事件や事故が結果として起こらなくなるまで時間がループする現象・再上映(リバイバル)が起きるようになる。

 ある時自身の母が殺される事件が起き、やはりリバイバル現象が起きる。

 しかしそれはちょっと巻き戻った時間で行動を選択し直せばいいというものではないらしく、なんと主人公が小学生時代の18年前まで戻ってしまう。元凶がその頃までさかのぼらないと解決できない、根深い問題だったのだ。何度もリバイバルと試行錯誤を繰り返し、主人公は母が死んだ真相に迫っていく——。



 だいたいそんな筋なんだが、主人公の試行錯誤が感動的なのである。

 絶対に守る。死なせない。その覚悟が、思いがよく伝わってくる。

 小学生編が長かったりするのだが、子役もなかなかイメージが合っている。これでいいだろう、と思ってもやっぱり未来でダメ。その都度何度でも、何度でもリバイバルでやり直す。

 それを眺めている観客は、主人公の思いや努力を分かっているので「それだけ人のために尽くしたんだから、もういい。最後は幸せをつかんでほしい」という気持ちになる。でも最後、「頑張った分報われる」ことを期待する観客は肩透かしをくう。

 結局主人公は、自分以外の皆を(ただ連続殺人犯の被害者すべては完璧に助けられなかった)幸せにしたが、その自分は死んでしまう。

 まさに作品のタイトル通り、『僕だけがいない街』 。



 皆がここでなんでだ? と思うのは、大勢多数が共通に抱くらしい人間的感情が宇宙のスタンダードだ、という前提だからだ。

 主人公にリバイバルが起きるということが、例えば「天の意思」のようなものだとして。あるいは、大いなる「お導き」のようなものだとして。

 我々の通常の理解では、悲劇を回避し人を幸せにするため。なのにそのために選ばれ尽力した主人公自身は、あっさり死ぬ。彼自身は何の干渉力にも助けられることなく、命を落とす。

 そこで皆疑問に思うのは、天はなぜ主人公を助けない? である。使うだけ使っておいて、あとは使い捨て? 時間巻き戻しで他の人は助けさせておいて、助けた本人は見殺し?

 筆者が本書内で嫌われながらもやめない主張のひとつが——



●上位次元は、我々とはまったく別世界の流儀で生きている。

 こちらの尺度で、創造者・観察者(昔の人の考える神)を考えてはいけない。



 神は愛、というのはまさにそうで、それは「人間が愛」というだけのことである。それを、勝手に良く分かりもしない神におっかぶせただけである。人間を、もっと言えば人間の「理想」を投影した架空の存在が「愛の神」である。

 神は、人間を愛している(はずだ)。人間にとってよいことしかしない。最善しか起こさない。

 みんなやせ我慢してそれを信じているので、辛いことが起こっても「これも最善」と頑張って考えようとする。実に健気である。これも実は必要だったのだ、と。

 でも、そう考えるにも限界がある。震災やテロ、凶悪犯罪に巻き込まれたりした時など。

 そのように「試されない」で済んでいる者だけが、きれいごとを並べてエセスピリチュルをやってられる。ひどい目に遭っていないから、すべては愛なんだというセリフが吐ける。

 筆者はなにも、悪いことが起きたら怒れ、恨めと言っているわけではない。ただ、力技で無理に感謝するくらいなら、素直に感じたように感じれば?(恨み言を言えば?) ということである。

 理不尽だ、と思ったらそれでいい。だって、本当に理不尽な世界なんだから。それがこの世ゲームなのだから。



 擬人的に言うが、この映画の主人公に「リバイバル」を起こし、人助けさせるように仕向けた存在がいるとして、その存在は人間とはものの認識の仕方や流儀が違うようだ。ベタに言うと、価値観が異なるようだ。

 我々は、「死」を何かよくないイメージで捉える。「損」というイメージもあったり、早すぎる死は「報われない」「残念」というイメージもある。でも次元が上がると、「一体何が価値あることなのか」の優先順位が違うかもしれない。



 ラスト、死んだ主人公の墓に献花する人々が映される。

「ありがとう、あなたのおかげで幸せです」と言って。

 主人公が尽力して、死なせないことに成功した人たちである。彼らの心の中では、主人公の存在が息づいている。主人公の生き様が、感謝と共に記憶されている。

 上次元ともなると、肉体的生き死によりも(どうでもいいとまでは言わないまでも)、 他人の中でその人の存在が拠り所とされていたり、大事にされていたらそれこそが「本当に生きている」ことになり、優先されることなのだろう。

 生き長らえていながら、誰の心の中にも住めない(住まわせてもらえない)ほうが、生きているとは名ばかりでは?



 今回の映画を見て感じる「違和感」、すなわち「主人公にこの運命を歩ませた者は何を考えているんだ?」の答えは、この次元に生きている者には「分からない」ということ。

 そもそも、こちらの尺度であちら(天)もそうだと決めつけることが、恐ろしい。そんな愚かしい無駄な考察はやめて、もう放っておいたらいい。

 精神世界、スピリチュアルを追求するのをやめたらいいということ。肉体人間の考えることなんだから、絶対どこかでズレますって。

 分からないものは分からない、で置いておいて、私たちは自分たちでできる「本分」にこそ注力したらいいではないか。今目の前の課題に、全力で取り組む、楽しむ、味わうということに。

 改めて、この世界で起きることがゆるされている事象は、人間の理屈や情の理解の範囲を超えていて、それを設定した側の真意など計り知れないなぁ、ということを確認させてくれる映画だと思った。




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※この記事は別著『スピリチュアル映画評論』にも収録します。

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