みんながブッダ
『みんながブッダ』というスピリチュアル本があるそうで。
まぁ、確かにその通りです。異論はありません。
今回はただ、「もし筆者が『みんながブッダ』というお題で話をするとしたら、どんな話になるかな?」と考えてみました。以下がその文章です。
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この世界には、色々な立場の人がいる。
そして、その人が身を置いている世界も様々である。
スピリチュアルをやっている人の多くは、自分が本物と思ったスピリチュアル、そこまでいかなくてもちょっと譲って自分の実践しているものと同類か、親和性のあるものこそが窓口となり、人々の救いとなると考えている。そのスピリチュアルが広まり、皆がそれを通して幸せになるのを見たがっている。
そこまでは思わない、別に人が幸せになるんなら何だっていい、自分はただこのスピリチュアルが好きだからやっているだけ、という方はまだ引き返せる。軽症だ。
スピリチュアルよりは宗教に多いが、自分がつかんだ教えや内容こそが唯一の道である(要は違うことを言っているのは間違い)と考えてしまいやすいのが、道半ばにある「半人前の求道者」の特徴である。
たとえば、今に全世界の人が瞑想するようになる、とか。この教えを、皆がありがたがって実践するようになる日が来る、とか。そんな夢想を抱いてしまう。
皆が「スピリチュアル」という分野を通してだけ大事な気付きを得られる、ということはない。むしろスピリチュアルは気付きに至る数多い道のひとつであるに過ぎず、あえてスピリチュアルという分野の門をくぐる者が一定数を超えて「当たり前」になることはない。要は、趣味の問題である。
たとえば、マフィアのボスがある日いきなりスピリチュアルに興味を持ち、そういった本があるコーナーを見に行ったり、スピリチュアルメッセンジャーの講演会に足を運ぶとか考えにくい。絶対ないとは言わないが、現実的であるとも言えない。そもそも接点がない。
マフィアのボスが悟るとか気付きを得るとするなら、それはその世界の中で、だ。スピリチュアルにお世話になる可能性は、万にひとつくらいしかないだろう。仲間の生き様や、そこで起きる出来事に体当たりしていく中で、その中のことが教材となり、トリガーとなり、パラダイムシフトが起きる。
スピリチュアルが言う「悟り」は、何もスピリチュアルの世界に身を置いて「悟りを求める」群れにだけ起きる専売特許ではない。スポーツ・芸能・音楽・武術などなんでもいいが、とにかくどの道も平等に悟りに通じている。
じゃあ、そうなった外部の人が「私悟りました!」とスピリチュアルの門を叩くかと言えば、そんなこともない。もしあったら、もっとスピリチュアル界は賑わっているはずだ。(泣)
多くの「水面下悟り人」は、自分の在り方をスピリチュアルや仏教でいう「悟り」と特に結び付けて考えることもなく、変わらずその世界で生き続けるケースが多い。
●むしろ、外部よりスピリチュアル界内部のほうが、求めているという優越感や求め方の誤解などから悟りは少ない。スピリチュアル界外のほうが、「悟り」とか「スピリチュアル」という言葉は良く分からなくても、それをある意味できちっと理解している者の比率が多い。
スピリチュアルをやっているから、その理解にやっていない者より必ず近いということはない。かえって、やっているからこそ見えなくなっている、思い込みができてしまっていることもある。その元凶として「腹ではなく本や講演会で得た、頭で理解するスピリチュアル知識」 がある。
スピリチュアルという分野にわざわざ来るのは、人種が限られる。だいたい、似たような人たちなので、万民の目覚めのための唯一の窓口としては不適格である。
マフィアのボスなら、人生の教師や気付きのトリガーはその世界の中にいる。ヤクザなら、その世界や関係者にいるかもしれない。工事現場で働く人なら親方や仲間の雇人から学ぶかもしれない。芸の道なら、その道の師匠やライバルたち。
そういう人たちが、いちいちスピリチュアルという分野に傾倒し、熱心にのめり込んでくるということはまずない。その世界に、その人に必要なものはあるから。
すべての道は、気付きに通ず。わざわざ『スピリチュアル』といういかにもな構えた場所に来る必要はそうない。宇宙に必要なことは、目の前のことに真剣に生きればどこでも得られるからである。
「スピリチュアル」という関門を見出しくぐった者しか宇宙の本質に迫れないとすれば、それはなんと了見の狭い宇宙であろうか。
だから筆者が「みんながブッダ」というテーマで話すとしたら、次のようになる。一人ひとりが神のごとき素晴らしい存在(悟る可能性がある)である、ブッダのごとき価値があるという程度の意味合いではなくて——
●ある人の身近な人が、その人にとっての「ブッダ」になれる、ということである。
言い方を変えると、誰もが誰かのブッダになれるということで、あなたが直でブッダですよ! というのとは違う。
ある人には、その人の親や子どもが、あなたに気付きをもたらして目を開かせてくれる「ブッダ」になるかもしれない。ある人にとっては、友人や恋人がそうなるかもしれない。
仕事上の仲間かもしれない。ある分野を追求する立場にある人には、その道程で、志を同じくする者との関係の中で、スピリチュアルでの学びに相当するものが必要単位として換算されるだろう。
スピリチュアルには真面目な者、普段恵まれた立場にあり、悩んだからといってスピリチュアルに傾倒できるカネと余裕のある者が来やすい。ゆえに余裕がなくても来るのが一番可哀想である。指導者をよくよく見極めないと、報われない目に遭う。
あるいは、それらしい「意識高い系」の人物。だから、そういうところにわざわざ一般人を来させるのは「狭き門」すぎ。
みんながブッダとは、単に個人の尊さや神的な価値を言い表すのではない。
みんなが、その置かれた場所で身近な人物の「お役に立てる」大事な存在だということ。
きっと、世界のどこかで、何らかの形であなたを必要としている人がいる。
また、あなたもあなたの世界を理解し得る、身近な誰かを求めている。
それは、普段生きる世界が違い、あなたの事情など知りもしない、講演会や動画で顔を見るだけのスピリチュアル指導者ではない。指導者はブッダではない。かえって、あらゆる違った場所で、違った立場を経験しているすべての人が、似た境遇の誰かの「ブッダ」になってあげられる。
相手の立場を理解して、慈悲を与えてやれる。(見下しを秘めた同情、とかではなく)
あなたもきっと、身近な誰かに助けられるだろう。
そして、あなたにも身近な誰かを助ける番が来る。
全世界の人が皆、身近な人にそれを実践したら、きっと世界は変わる。
決して、少ない指導者の力で全体が牽引されるのではない。
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