偉大な悟り人はあえて矛盾を抱き込む

 以前、NHKの『こころの時代 ~宗教・人生~』という番組で、当時私は存じ上げず失礼したが、ティク・ナット・ハンという世界的に有名な禅僧を取材しその活動や理念を取り上げていた。

 その方のメッセージを番組で聞いた筆者なりの感想を書いてみることにする。

 聞きかじっただけで、この方のメッセージや活動の全般をよく知らぬのに書くのもどうか、という人間的な心配もあるが、でも言いたい(そういうものを超えた部分)ので、あくまでも私見であり勝手な評価であることをあらかじめ明言した上で、好きなように言いたいと思う。



 一応禅僧らしいので、その立場をかけ離れたことはもちろん言ってない。

 非暴力と慈悲を説く。その教えはおおまかに「マインドフルネス」と呼ばれる系統。スピリチュアルでも大体王道の、誰も反対しない話である。

 そういうことは、結構誰でも言っている。でも、この方が飛びぬけて人気が高いのは、「行動する仏教」を打ち出している点にある。この方は、世の争いや苦しみと関わらずに寺院で瞑想し続けるか、それとも思い切って世に飛び出していくかを自らや他の禅僧に問うた。

 そのどちらも(個人の瞑想も他者への働き掛けも)必要、と説く。内側の平和、そしてそこから衝動的に来る平和への具体的な行い。その、ふたつの要素の相互作用こそが大切とする。

 心と体。無形と有形。光と闇。陰と陽。

 人の目には対照的に見える二つのものが実はコインの裏表であり(ひとつであり)、そのどちらが欠けてもならない。ゆえに自分と違う、反対のものを排除ではなく、宇宙的にすべてが必要なことわりになっているのだ、と言っている。そこのところは、本当にその通りである。

 ティク・ナット・ハン氏は一本の木の枝を使って、あるたとえ話をしていた。



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 皆さん、この木の棒を見てください。(棒を水平に横にして)

 私から見て、棒の左端が「私が正しいと思うもの」を示し、右端を「私が間違いだと思うもの」だとしましょう。私から見た右左と、客席の皆さんから見た右左は反対になりますね? つまり、あなたが正しい、間違いだと思うことがあっても、他人も必ずそう見るとは限りませんね。

 人は、自分と違うものを(自分が正しい、という思いが加わればなおさら)排除しようという心の動きになりやすい。けれど、この宇宙はすべてがバランスであり、対(ペア。つまり陰陽)で成り立っており、必要なので消えることがないのです。どんなに無くそうとしても。



 たとえば、この棒の左側を政治的な「左翼」、右側を「右翼」だと考えましょう。

 この二つは、とにかく仲が悪い、お互いを無くしてやりたい、と考えている。

 さて、そこで右翼が左翼を全滅させることに成功した、と仮定しましょう。

 この棒の左側を、折って無くしてみますね。(ポキッと棒の左端を折る)

 さぁ、なくなりました。右翼は、今日から羽を伸ばして活動できるぞ……と、本当にそうでしょうか?

 皆さん、今確かに棒の左側を折って無くしました。でも、短くはなりましたが『新しい左側』が生じていることが分かりますか? 今現在気に入らないものを排除しても、結局またその役割をする者が現れる。ただ、それだけの話なんです。

 たとえば、同じ右翼の仲間内の中でも、革新派か保守派かに分かれるじゃないですか。同じ宗教を信じていても、やはりその中で立場の違いや好き嫌いは生じる。

 だから、常にそうであり続けるものに逆らわないことです。排除ではなく、そういうものだと受け止めることです。世の理を受け入れ、認め、そこで怒りというものが慈悲に包まれていくのです。



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 おおまかに、番組での彼のメッセージはそういう内容であった。

 これで興味の湧いた方は、ティク・ナット・ハン氏の著作なり動画なりを探し、堪能されるのもよいと思う。筆者の目からは、日本における悟り系スピリチュアルの有名どころなどよりは、はるかにオススメできる。まぁ、無害である。(笑)

 基本的に、この方への文句はない。私がこのような方のようには、なろうとしてもなれない。その私に何か言う資格はない。

 でも、資格がなくても言いたい時はあるものだ。

 この方は、結局何を目指しているのか、が厳密に疑問なのである。でもその疑問は、実は賞賛にもつながるのだが。



●行動する仏教を説いている辺りから、世界を良くする活動に力を入れているようだが、それは究極な「陰陽の教え」「相反する二つが排除できず、常に存在する世界」であることを受け入れる、禅の「悟り」の行きつくところと少々違うものであることを、この方は確信犯的に扱っているのだろうか。

 覚者の分かる最高の行動基準は、無策無為である。いかなる行動も(善行であっても)その価値を超えるものではない。では、なぜ他者に「行動」を促すのか? それは覚者の仕事でなくてもよいはず。



 別に悪と戦わなくても、何かを目指して運動するということは「囚われから離れること」とはベクトルが逆である。「悪い囚われからだけでなく、良い囚われからも」 離れるということが悟りに向かう道であるのに、固定された「何かの良いとされる状態」を目指すことだから、実は究極にはアウトなのである。

 良いものに囚われるのはよくて、悪いものだけに囚われないようにする、というのは禅やマジで悟りを求める道では、邪道である。世俗で、悟りとか関係ないところでその「いいとこどりオリジナルスピリチュアル」は勝手にやってほしい。

 そういうエゴ都合のニセモノではなく、本物は「良いも悪いも関係なく、偏りなく捉えることを徹底している」。だから、この禅僧が本当に悟りの道だけを説いているのなら、世界的に有名にはならないはずだ。面白い話ではないし、そもそも誰もが行ける道ではないから。

 だとしたら、この方は「確信犯」である。大勢が幸せと思えるものをつかみ、それなりに平安に生きられるということを主眼として、究極のだいぶ手前の話をあえてしている感じがある。

 それでも弁護すると、にじみでるこの方の感じから(もちろん主観である)他意はなく、自然とそうしているように思う。心から、世のためにやっている感じは伝わってくる。私にはちと真似できない。



 結局、この方の「マインドフルネス」を広めて、大勢を怒りではなく平安の道へ導きたい、という活動なんだろうが、この方自身がすでにネタバレを言ってしまっている。「棒の端を切っても、新しい端が生まれるだけで結局変わらない」と。

 だから、どの時代にもある人々が悟りに至れば、お役目として(常にペアが存在する世界として)その逆の人が誕生する。嫌な言い方をすれば、「あなたが悟るから、悟らない方が宇宙バランスとして(お役目として)生まれる」。

 だから、実はあらゆる宗教 (スピリチュアル活動)に、この世のことわりまで変える力はない。すべて限界があり、ある程度の嫌なもの、悪いものを排除し世を良くすることはできるが、どこかでキリをつけて「受け入れる、世を認める」段階にいかないと、苦しいまま(戦い続けるまま)人生を終えることになる。

 室町時代を生きた一休さんは、虐げられた民衆のために立ち上がって世を変えようとはしなかった。ただ、そういう人たちに寄り添うということをしたのみ。

 もちろん、当時の政権に苦言は言ったが、積極的に世の間違いを正して世界を変えようという運動にはまったく振り子が揺れなかったのが一休さんである。



 この禅僧は、あえて「矛盾」をかかえようとしているように見える。自分のためでなく、皆のために。

 世界平和運動と、悟りの奥義は相容れない。

 でも、大勢の民衆にとっては本当の悟りがどうのより、今日明日の自分と愛する者の平和と笑顔が大事なのだ。それを分かっているティク・ナット・ハン氏は「見えるイヤなものと争っても、消しても仕方がない」という話をしながらも、それでも世を良くする運動に身を投じる。

 究極に悟りきって、「たとえ悪いものを何とかするためでも、関わり合うことはしない」という徹底したマスターよりも、大勢に目線を合わせるためにあえて行動する大切さを説く彼は、なかなか偉大な指導者だと思う。

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