Life is beautiful

 あまりにも衝撃的だった内容ゆえに、ずいぶん経った今でも話題に上ったりする「相模原障害者施設殺傷事件」。筆者も、スピリチュアルを真正面から語る上で避けて通れない内容ゆえに幾度か扱ってきた。

 犯人は手紙か何かの中で「障がい者は皆死ねばいい」という趣旨のことを述べた。

 つまり、要らないということである。迷惑をかける存在でしかなく、消えたら皆楽になる、という発想だろう。それだけ聞いたら、皆この犯人の考え方にあきれて、異常者としか思わないだろう。

 筆者は7年間障がい者施設に勤めていた職員経験があり、なお自身が精神障がい手帳を所持する者として、言いたいことがある。なぜなら、犯人が「死ねばいい」と言ったその障がい者の中に、厳密には私も入るからである。

 今回は、建設的な議論をするために「そもそも障がいなどというものは存在しない。その発想自体がおかしい」というスピリチュアル的本質論は封印する。そこまで問うてしまっては犯人や世の人と同じ前提に立てず、かみ合った対話が成り立たないからである。



 筆者は職員時代、勤務中にケガをした。

 施設の利用者に腕を噛まれたのだ。またその噛んだ方が、二十歳前後のがっしりした男性で、こだわりの強い障がい者だった。給食の時間、となりの人の分を勝手に食べてはいけないということが理解しにくいらしく、何度も挑もうとするのでそのたびに職員が静止する。

 でも、その男性は納得できずイーッとして、邪魔する者に噛みつく、ということをしてくる。それが手加減なく全力なので、職員にひどい傷ができる。たまたま当時、婚約期間中の女性がいたのだが、その男性の担当として腕に出血する傷を負った。

 利用者には言わないが、「嫁入り前の女性が、職務とはいえなぜこのような目に遭わなきゃならない……?」というのは、職員一同心の底で誰もが思っただろう。

 私も、その後日同じ目に遭った。防御策として長袖のウインドブレイカーを着用して臨んだのだが、その男性の皮肉にも健康で丈夫な歯は見事その生地を貫き、無視して傷を作った。今でも、うっすらとその傷は残っている。

 冷静に考えたらちとおかしいのだが、仕事のために体を張るのは当たり前、という考えが自分に疑問を抱かせなかった。当然とは思っても、職場や利用者を責めるなんて考えは当時起きなかった。



 これは、ほんの一例である。

 筆者が7年勤めた施設は、利用者が朝来て夕方帰る「通所型」だったから、まだよかったのかもしれない。相模原の犯人がいたところは、シフト制とはいえ24時間利用者の生活全般に責任をもつ「入所」タイプだったから、私以上に色々な現実を見たのかもしれない。

 もちろん、障がい者施設に関わった者が皆犯人のような考えに至るわけではない。

 むしろそれはレアケースであり、ほとんどの障がい福祉関係者は今回のことに憤っているだろうし、悲しく遺憾に感じていることだろう。同じ関わっていてもそうならない人のほうが多いのだから、犯人はおかしいのだ。それを即、障がい福祉の世界にも問題があるのではというのは短絡的、と擁護する向きもある。

 もちろん、私は犯人は問題があるとは認めつつも、0.1%くらいは 「障がい福祉の在り方やその内容に関して再考すべきというシグナル」だと捉えている。

 犯人が異常だ、で終わってのど元過ぎて熱さ忘れられたら、残念すぎる。保育士の待遇のこともそうだが、もう少し「尊い仕事」として、厚遇したらどうか。

 野球選手や政治家、売れっ子芸能人にそんなに過剰なカネ渡さなくていい。その分を削ってでも、福祉に回せ。

 自由競争社会は、幼い人類にはまだ扱いきれないおもちゃである。



 筆者は、確かに存在しているだけで、悪気なく迷惑をかけているのかもしれない。

 いや、かもしれないではなくそうだろう。実際そういうところもあるのだろう。

 だったら、私は不快に思うかもしれない皆さんのために死ぬのがいいだろうか?

 いや、死にたくはない。むしろ、生きていたい。殺されかけても、できるかぎり全力で逃げるだろう。最後まで生きようとするだろう。

 私が、あの犯人に言えるメッセージがあるとするなら——



●色々あって、あなたはそういう結論を出したのかもしれないけど、私は違う。

 ごめんだけど、私は生かさせていただく。

 もちろん、堂々と迷惑をかけて当たり前のような顔をするようなことはしない。自分の気付ける範囲で、全力で良い選択をするつもりだ。

 そうやって全力で気を付けていても、皆さんから見て不十分なところがあったら、それは本当に申し訳ない。でも、それでも済まないが生きたいんだ。

 意味のないもの、必要ないものは存在すらできない。

 だから「在る」以上、その意味を考えていきたいしそれは「生き続ける」中でしかつかみ取れない。だから、お世話かけるとしてもそれでも生きたい。



 世話をする側も、「命は大事だから」「見殺しするなど良くない」とか、そういう生命哲学的根拠をもって、頑張って世話をするなら黄信号である。

 一番理想なのは、命だから生きる権利が障がい者にもるから、とかそういう根拠じゃなく、そういうことがなくても「世話をしたい。情熱がある。(しんどいこともあるけどそれでも)やっぱり楽しい」というので、仕事ができることである。

 もし、あまりの状況の厳しさにその情熱が薄れて、命は守るべきという「最後の砦」に頼らないといけないまでになった時は、誰にも相談せず自分で頑張ろうとするのをやめて。その段階ではもはや、自力で心がよい方向に行くことは困難を極める。



●やってられない、とふと思ってしまった時。

 うやむやにせず、職員は恥じずに弱さを見せてほしい。

 黄信号の時点で、すぐに誰かに吐きだして、相談してほしい。

 また、そうして頼れる雰囲気を作ってほしい。



 決して介護疲れや「この人がいなければ……」と魔が差して考えてしまうのは、責められることではない。(実行する前なら)その時点で、何かにSOSを出せるシステムがいる。

 職員に重荷を背負わせ、やりがい搾取のように頑張らせる障がい者福祉の現場に、問題がないとは言えない。

 7年勤めた感想として、福祉の現場は関わる者の犠牲である程度成り立ってる部分がある。問題なのはそのこと自体よりも、「口では不平を言わないが根には持っている」闇の部分が少なからず職員側にある、ということ。すべて納得ずくというわけにはいっていない、背伸びしてやせ我慢している部分がある。



 筆者は障がい者だが、犯人の希望どうりに死んではやれない。生き続ける。

 その代わり、世話をしてくれる側も、いつも職員として完璧でなくていい。強く在り続けなくていい。イヤだとかきらいだとか思っても、私たちに申し訳ないと思わなくていい。

 恥じずに、その気持を上司なりに相談してほしい。また、そのような受け入れ体制を作ってほしい。彼らの情熱や仕事の難易度に見合うお給料を出してあげられる社会になってほしい。それが政治だ。それこそが、文明だ。

 それなくして、人類が「愛」など高尚に説いても、無意味である。

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