情報過疎

『おさるのジョージ』という世界的に有名な絵本がある。

 今どきの子なら、絵本よりもアニメ化されたもののほうが馴染みがあったりするのかもしれない。

 もちろん筆者が子どもの頃にアニメはなかったが、絵本としてはあったので知っているし、ずいぶん息の長いキャラだと思う。



 アニメ版ジョージのお話には、おおまかにふたつの傾向がある。

 ひとつは、王道の「主人公のジョージがおさるなりの知恵を使って、人助けをしたり役に立ったり大活躍」する路線の話である。そしてもうひとつは、「ジョージがおさるなりの思慮の足りなさ、読みの甘さから周囲に迷惑をかける話」。

 後者はさらにふたつのパターンがある。迷惑はかけるが、最後は反省し名誉挽回するパターン。そして話の最後まで自分の失敗に気付くどころか、「自分はいいことをした」思い込んだまま話が終わるパターン。

 筆者は先日たまたま、ジョージが最後まで迷惑パターンの話を見た。



 黄色い帽子のおじさんから、部屋をゴミで散らかしているのを注意されたジョージ。そこでジョージはおじさんから「掃除機」の使い方を教わる。

 掃除機を使えば散らかしたゴミくずをきれいにできる、ということが分かったジョージ。でも、おじさんの家にある掃除機は人間用で、ジョージにはちと大きすぎる。そこでおじさんは、ジョージの身の丈に合うようなハンディタイプの掃除機を、ジョージに与える。

 これが、悲劇の始まりになるとも知らずに!



 ジョージが学習したことは、とにかく散らかっているものはキレイに、である。

 さっそく、おじさんの机の上をきれいにする。

 そこには、他人から預かった貴重な切手が置いてあったのだが、ジョージの目には掃除すべきゴミに見え、見事に掃除機の腹に収めてしまう。

 次に、掃除するものがなくなって退屈したジョージは、街に出る。

 ハトにパンくずをあげているおばさんがいたが、ジョージはそのパンくずを掃除してしまう。ハトは食事を取り上げられ、おばあさんは追加をあげたくても、もう残りがない。そんなハトとおばあさんの困惑顔をよそに、得意気なジョージはさらに「人を幸せにするいいことをしよう」と、チャンスを求めて移動する。

 宝くじに大当たりしたおじさんが、当たりくじをうっとり眺めていた時、突風が吹いた。手元からヒラヒラ離れてしまった当たりくじは、ジョージの足元へ落ちた。

 待ってました! とばかりに、掃除する機会を得たジョージは、掃除機で当たりくじを吸う。そして、おさるの足の速さで移動する。おじさんは、当たりくじを持ち去ったおさるを必死で追跡し始める。

 黄色い帽子のおじさんもジョージのしでかしていることに気付き、必死の追跡によりジョージが吸い込んでしまった「町の人の大切なもの(もちろん切手も)」を取り戻す。

 このお話では、ジョージは最後の最後まで「自分はいいことをした」と喜んでいるまま終わる。



 何だか、どこかで聞いたような話じゃありません?

 そう、先日記事にした相模原市の障がい者殺人事件である。その犯人は、このジョージと同じである。ジョージの失敗は何だったかというと——



●見かけ上の表向きのことだけ観察して、それ以上の情報を得ようともせず単純に結論を出し、その通りに行動した。結果、自分は間違ったことはしていないと考えた。



 ジョージには、切手がただのゴミに見えた。誰かの大切なもので、ゴミではない可能性を考えなかった。

 おばさんがハトにあげようと撒いていたパンくずも、ゴミに見えた。おばさあさんが何のためにパンくずを撒いているのか、その理由を追求しなかった。

 その年頃の者が、意味もなく公の場所でゴミをまき散らすなんてするだろうか?

 ジョージは、とにかく理由付けして掃除がしたかった。4月は花見で酒が飲めるぞ、見たいに。

 スピリチュアル風に言うと、ジョージは「自分の見たいようにしか見なかった」 のである。価値ある当たり宝くじも、紙に込められたそういう意味合いに思い至れないと、ただの紙くずである。価値の分からない者は惜しげもなく、掃除して捨てることができる。



 相模原の事件の犯人は、悪気なく物事の表面だけを見てしまった。

 確かに、障がい者がいることでそれを支える職員が苦しい思いをしていたり、親御さんが大変な目に遭っているように見えたかもしれない。でも、ここに人生の皮肉な真実がある。



●他人の目につらそうに見えても、本人はさほど辛くない場合がある。

 ある人が誰かに迷惑をかけられているように見えても、それほど嫌だと思っていない場合がある。むしろ、大切に思っている場合がある。



 二人会えばいつもケンカばっかりしているような男女が、ある日突然付き合いだしたり(しかも早々に結婚を決めてしまったり)して、周囲をびっくりさせることがある。今回の事件の場合も、障がいのある子どもでも、苦労はあっても間違いなく「我が子」である。言葉にすれば「障がいをもった我が子」であるが、「障がいをもった」という部分よりも「我が子」という部分こそが重要なのである。

 犯人は、障がい者がいなくなれば周囲の苦悩や不幸はなくなると考えたのかもしれないが、とんでもない。気持ちの一端は理解できても、やはり残念な見方と指摘せざるを得ない。

 いくら世界的人気を誇るおさるのジョージでも、紹介した今回のお話を読んで、ジョージが素晴らしい活躍をした、と思う者はいないだろう。



 ジョージも犯人も、「情報過疎」だったのである。

 ゴミ見えたものには、実はジョージの知らない意味合いと事情があった。

 障がい者は要らない、と思えた犯人には、志があって福祉に携わる者やそういう者を子に持つ親は、決して「不幸ではない」ということが分からなかった。

 そりゃ人間だもの、時には面倒を見るのに疲れ果て、精神的に不安定になることもある。そこだけを切り取って見たら確かに「この子さえいなければ、この親は苦しまずに済むんだな」と単純に誤解する。

 むしろ、本来はそれが親の「生き甲斐」であるというのに。

 それを、ジョージのようにこの犯人は掃除機で吸い取ってしまった。



 この世界で起きる悲劇は、そのほとんどが人間現関係に端を発している。

 いわゆる「すれ違い」である。誤解である。

 誤解とは、情報の過疎によって生じる。ある状況を理解すために決定的に必要なピースを欠いてしまう時、悲劇が起きる。

 たとえばある女性が、彼氏が忙しいからと会えなかった日、街で別のきれいな女性と仲良く歩いている彼を偶然見つけ、激しい嫉妬心と裏切られたという憎悪に身を焦がす。でも後日、彼氏に問い詰めたら気の抜ける一言が返ってくる。

「ああ、会わせたことなかったっけ? あれ、妹。地方の大学に下宿して通っているんだけど、久々に里帰りしたから買い物付き合ってあげたわけ」



 犯人の思想は、その知り得た範囲内の情報で頑張ってこさえた人生観なのだと思うが、情報不足の中から無理やりひねり出したという感は否めない。

 テロリストなどの思想もそうで、彼らもジョージと同じで自分では完全無欠の信念をもっており、正しいことをしていると胸を張っていると思う。ジョージにいちいち「これは大切なもので、ゴミじゃないんだ」と分からせるのはまだ難易度が低いが、テロなどの思想犯に分からせるのは大変だ。超難易度ウルトラC並の技を決める奇跡が要る。

 なのに人は、自分が気分よく生きていればそれも解決するくらいの勢いで考えている。意識万能(全能)系のスピリチュアルは、使い方を間違えると無責任楽観主義でしかない。

 とりあえず、難しいことは抜きにして私たちができるのは、自分や外をしっかり見つめることである。



●今自分が、色々なことに対して下している評価や結論は、本当にそうか?

 判断するのに欠けている情報がある可能性は?

 そのせいでひどい誤解をしている恐れは?



 ジョージのような失敗をしないためにも、立ち止まってそう考えてみる余裕をもつことである。

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