パッシブ・スキル

 今日の話題は、TVゲームでRPGやMMOをやらない人には分かりづらいかもしれない。

(RPGやMMOって何? と問うならもうすでにタイヘン)

 レベル1のキャラクターから始めてモンスターを倒したり依頼されたおつかい(クエスト)を果たしたり人助けをしたりしたら、それが経験値となってたまりレベルが上がっていく。

 レベルが上がるとキャラの能力が高くなり、より強力な武器や防具を装備できるようになったり、特殊な技を発動することができるようになったり。そうやって今まで行けなかった強敵のいるエリアにもいけるようにったりと、自由度も増す。

 しかし、この手のゲームには「明確な終わり」がない。一応、その世界観の中での一番の敵というものは設定されてはいるが、それが終わってもいくらでもその世界を散策し、暮らすことができる。実際、飽きてしまうまでやることがなくなるということはない。



 プレイヤーキャラクターは、スキル(技)を習得することで敵と戦う。

 その技が剣技か、弓の上達か、はたまた魔法かといったスキルの違いによって、キャラに個性が出る。戦士とか魔法使いとかローグ(盗賊)とか。

 そのスキルの中でも、おおまかに二つある。

 アクティブスキルと、パッシブスキルである。

 アクティブスキルとは、火の玉を飛ばすとか強力な斬撃で攻撃力が一時的に二倍になる、とか一度に数本の矢を弓で撃てる、とかいう分かりやすいやつだ。

 つまり、それを意図的に発動することでしか撃てない。その技を使おう、としてボタンを押さねば使えないのだ。

 で、パッシブスキルというのはちょうどその反対で——



●ロールプレイングゲーム(RPG)などにおけるキャラクターのスキル(能力)のうち、コマンド選択などによって能動的に発動するのではなく、常時その効果が現れるものを意味して用いられる語。ゲームによっては、単に「パッシブ」と称される場合もある。



 たとえば、「体力回復率が3%増える」とか「病気によるダメージが無効になる」とか、何かの技のように発動するタイミングを見計らって使うものではなく、意識しなくても裏で常に勝手に有効になっている、というものである。

 一度そのパッシブスキルを習得したら、もうあとはそんなもの習得したことを忘れてても、陰で役に立ち続けてくれている。



●スピリチュアルという世界は、パッシブ・スキルだけで成り立っている。

 アクティブ・スキルなどというのは存在しない。一見あるように見えるが、それはパッシブスキルに支えられた見かけ上の現象に過ぎない。



 スピリチュアルで、「何かできる」ようになることを目指すのは滑稽だ。

 様々なセミナーで、霊能力やサイキック能力、はたまた幽体離脱やチャネリングまで、実に様々な「アクティブスキル」を目指すものがある。

 そんなものに意味はない。

 もちろんそれは筆者のいち意見にすぎないので、「本当に意味はないから皆やめなさい」と警告するようなものではない。あくまでも僕はそう思うということなので、そう言われてイヤなら本書をもう読まなければいいだけのことだ。



 私は、本書でずっと言ってきた。

「意図的に何かすることの限界」をである。

 たとえば、悟り。これは悟ろうと意図して頑張ってもさほど意味がない。

 さほどどころか、求めるものの性質上、追えば余計に遠ざかることも多い。

 感謝、もそう。人気の自己啓発では「感謝の大切さ」が述べられ、極端には100回感謝と言おうとかツイていると何度も自分に言い聞かせよう(潜在意識に刷り込む?)とか言うものもある。

 ハッ、無駄なことを。

 感謝こそ、「感謝しよう」という意図ありきでしたものは、鼻をかんだあとのチリ紙程度の価値しかない。(逆に言えば、その程度には価値があると言っているのだから、私は優しい方だ)

 一度かんだチリ紙も、もったいないので二度かめるという程度の価値はある。



 確かに、この世界で目に見える現象として、スピリチュアルな能力を使いたい時に発動している風に見えるものもある。

 しかし、それは見かけだけだ。本当にある程度の域に達した者は、さぁ今この能力を使うぞ、という思考や気負いはない。

 他人には、その人物が今考えて能力を使っているように見えても、本人は宇宙シナリオの自然な流れの一部として「私がこれをしている」などという自覚も薄く、水が流れるように自然に行っている。

 まるで、パッシブスキルが本人のその日の考えや状態に関わらず、発動されていてそれが「仕事」をしているような感じ。これを「(宇宙に)お任せ」と言う。



 だから、スピリチュアルでやることってパッシブスキルを知らないうちに身に付けること以外ないわけ。しかも難しいのは、この日この瞬間から身についた、とかいう境目が自覚しにくいこと。

 いつの間にか、気が付いたら「そう思えるようになっていた」「自然と感謝が湧いてくる」とかいうふうになってるのが観察される、というね。

 だから、結局やることって——



●日々、その瞬間を大事に生きること。

 自分に都合の良い展開でもそうでない展開でも、それはそれとして受け入れる。

 そして、次それを受けてどうしたいのかを、悔いがあとで残らないように(それがベストだが、悔いができるだけ少なくなるように)選択し続けていく。

 そして、本のページをめくるように、その結果をまた見つめ続けていく。



 なんちゃらワークとか何だかセミナーにでるほうが、直接的にスキル上げに役立つような気もしやすいが、一番堅実で間違いがないのが、今生きているあなたの生活の中にこそ、気が付けばパッシブスキルが身につく教材や早道はある、ということ。

 お金を払い過ぎたりそれ専門の先生に頼りすぎると「お金かけてそれをやっている」という事実への安易な安心感が、大して何も変わっていないのに「参加したから、一定セミナーを履修したからという意味不明な自信が、自分が何か得たような気にさせる」。

 この先生の言う通りやっているんだからきっと大丈夫、というのは一歩間違えば闇の穴である。



 筆者が日々本書を更新したり動画メッセージでしゃべくっているのは、大勢にはアクティブスキルと思われていることだろう。能力とか実力を発揮している、風な。

「賢者テラさん、よく毎日書くことがありますね。で、トークも長時間よくネタ切れになりませんね!」という褒め言葉は、そういうことである。

 お気持ちは嬉しいが、それは違う。筆者が日々発するメッセージは、「パッシブスキル」によるものである。

 さぁ今書くぞ、と書いている感覚はない。息を吸うように、当たり前なのだ。書く時間だけ一日のうちでガンバッテルぞ、というのはない。



 スピリチュアルの深みは、人が羨むようなアクティブスキルを分かりやすく身に付けて、幸せや「自分はできている感」をアピールするところにあるのではない。

 むしろやることも言動も飾り立てない。その人の「素」が、その人が変に小細工したりテクニックを使わなくても「何かがにじみ出ていて」、いつ何時でもその人らしさが出ているものだ。

 アクティブスキルを追うより、日常の当たり前を大事にして、それが結局思いがけないところで自分の陰の武器になって自然と人のお役に立てていた、というのがきっといい感じ。

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