私が必要ない人たち

 筆者は、少し前まで就職活動をしていた。

(ちなみに現在ではこの活動に骨をうずめる覚悟を決めた)

 かつてとある職場を見学に行き、そこの所長さんと話をした。結局こちらとあちらのニーズが違い、ご縁はなかったのだが。

 でも、そこの所長さんがとっても「いい人」で——



●今回はご縁はなかったかもしれませんが、これは大きな一歩ですよ。

 こうして来てくださったことは、決して無駄じゃない。

 次に、きっと生きてきますよ。

 


 そう励まされたが、もちろんそんなことは百も承知である。(笑)

 でも、不思議とうれしかった。そのお気持ちを、大事にいただいた。

 相手はもちろん、賢者テラとしての私を知らない。40代で就職に困っている中年男、としか情報を与えていない。

 この五年間、悟り系スピリチュアルを伝え続けてきた私が「他人から人生訓を示される」ようなこんな場面に遭遇しているということが、みじめとか落ちたとかいうより「面白かった」。

 日頃人に言うばっかしなので、このようにスピリチュアル指導者としての私を知らない人から普通に生き方や人生哲学を熱く語られる、というのは新鮮な感じがした。



 同じ集合住宅に住む隣人とやった「バーベキュー」も面白かった。

 そのご近所さん(女性)は最近引っ越しをしたのだが、同じ年ごろの子どもがいる同士ということで筆者の奥さんと仲良くなった。で、なんとそこの旦那さんが外国人。(白人男性)

 河川敷でのバーベキューに誘われ、旦那さん(筆者のこと)もどうぞということで、皆で行ってきた。

(どのみち車の運転要員が要ったので行くしか選択肢はなかったんだが!)

 他にも二家族ほど来ると言っていた。私は行ってみてビックリだったのだが、その二家族とも夫婦の片方が外国人!

 欧米の人ばっかりではなく、一人はサウジアラビア出身の男性もいた。皆日常会話程度の日本語は話せるが、込み入った話になるととたんに英語が飛び出す。筆者が外語大出身で、ある程度ヒアリングもいけると分かってからは英語だらけ。

 よく分からないうちに、インターナショナルな雰囲気に浸かりきったベーベキューとなった。



 筆者はその間中、いきなり知り合ったロバートという男性と話しこんでいた。彼は筋金入りのクリスチャン。特定の教会には属さず、独自で活動しているらしい。

 彼はひどい病気にかかったが、イエスと霊的に出会い、体に奇跡が起こって健康体に完治した。それ以来「神のパワーは奇跡を起こせる」と確信し、以来駅やコンビニで辛そうにしている人や体が悪そうな人を見つけては、手を置いてイエスの名によって祈る活動をしているという。

 で、実際に「治った」という人が洗礼を受け、彼が信仰に導いた日本人は少なくないという。

 ロバートは「他人に迷惑じゃないか」とか「おせっかいなんじゃ」とかいう、日本人がしがちな発想は皆無なようで、どんどん人に声をかけている。今のところはそれが良い方に働き、彼の癒しの奇跡で助かる人が増えている。

 で、実際に私も祈られた。(笑)



 ここでも、筆者は日頃何をしている人なのかと聞かれはしたが、文章を書いている(ライター)くらいしか情報をあたえていないので、向こうは嬉々として神の(イエスの)素晴らしさを語っていた。

 これも日頃は私自身が他人に発信する立場にあるのだが、やはり「人から説教される、メッセージされる」という経験がほぼないため、これまたウンザリするとか全然なく、面白いひと時を過ごさせてもらった。



 私が、このふたつの体験を通して感じたじたことは何か。

 ある職場の所長さんにしても、キリストを伝えるのに熱心な外国人にしてもそうなのだが、二人とも「生き生きしていた」。

 自らの信じる道、自前の人生哲学で十分満足していて、幸せそうだった。

 もちろん、本当のところは分からない。見た目や印象は必ずしもすべてを語ってはおらず、裏で実は……ということも可能性としてはある。

 でも、それでも私には彼らは彼らなりの喜びをもって、自分を気に入って生きているように見えた。



●そうか。

 こういう人たちに、賢者テラは要らないよな。



 悟りとは何か。くうとは。私とは何か。

 ワンネスとは何か。「私はいない」とはどういうことか。この世界が幻想とはどういうことか——

 そんなことを知らなくても、この人たちは「今」幸せなんだなぁ。もしかしたら、スピリチュアルを追いかけている人たちよりも。

 スピリチュアルは、声には出さないが「宗教」を下に見ている。

 でも、私が会ったロバートさんは、これまでスピリチュアルの世界で出会った人を含めた中で、幸せそうで実際にエネルギーパワーもあるトップの五人に入る。

 だから、正しい教えなのかとかいうことは大して関係ないんですな。何を信じているかよりも「どう信じているか」のほうが影響大。

(もちろん、少なくとも反社会的でない教えだということは最低条件だが)



 賢者テラとしての筆者のメッセージは、はっきり言って既成キリスト教の教えとは相容れない。

 どこぞの所長さんが語る「すべての経験は決して無駄じゃない」も、ある程度大人なら誰でも言える。デイープなスピリチュアル理論に比べたら、むしろ当たり前すぎる理屈である。

 でも、私は所長さんの話もロバートさんの話も、素直に聞けた。我慢して聞いてやったとかでなく、気持ちよく。

 プライドもへったくれもその時の私の中には存在しなかった。私の伝えていることとは違うが、それでも「この人たちが今後も信じる道を気持ちよく行くことができますように」と思わずにはおれなかった。



 メッセンジャーとして売れること、本が売れ講演会が盛況になること——

 そりゃ、そうならなくてもいい(なりたくない)と言えばウソになる。

 ただ、筆者の教えなどなくても幸せでいられる方々に、私は広まる必要がない。この事実を、生きた実例が私に教えてくれた。

 これで、私は自分が決しておかしな方向へ行っているのではないと確信した。

 むしろ、私とたまたま目指す何かが似た者同士が出会い、その出会いを大事にしていけばそれで済むこと。世の認知度の拡張なんか無理にしなくていい。それに囚われるのは一時期でいい——。

 むしろ、それを卒業できない悟り人こそ問題である。いつまでも大勢に囲まれて人気の「悟り人」など、どこか不健康でもある。



 これからも、パクリではないが「ひっそりとスピリチュアルしてます」。

 興味が未だおありのご奇特な方は、どうぞこれからもここでごゆるりと。

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