同じものが返ってこなくても

『テスの木』(主婦の友社)という絵本がある。

 テス、という女の子が主人公。

 家のそばには、175年も立ち続けていると言われる立派で大きな木があった。

 テスはこの木が大好きだ。ずっと、この木と仲良くしてきた。

 庭で遊ぶ時には、いつもそばにはこの木がいた。

 木は、テスの大事な友達だった。



 でも、ある嵐の日。

 強風にさらされ、木の枝がたくさん折れた。

 もう中から腐ってきていて、このままにしておいたら危ない、ということで——

 大人たちの判断で、テスの木は切り倒されてしまった。

 テスは怒り、自暴自棄になったりずっと泣いていたりを繰り返す。



 いい加減泣き疲れたテスは、何か木のためにしてあげられることはないか、と考えを切り換える。

 そして思いついたのが「木のためにお葬式をしてあげる」ことだった。

 テスは友達や近所の人にお葬式の案内状を書いた。



 切株になったテスの木の前に椅子を並べ、皆が集まった。

 大人が司会をして、ひとりひとりこの木との思い出を語った。

 小さな頃にこの木で遊んでいたおばあさん。

 新婚当時に木に名前を刻みつけた、以前この土地に住んでいた夫婦。

 自分の木のようなつもりでいたけど、以外に沢山の人と関わりがあり、大事にされてきた木だったのだと知った幼いテスの視野は、ちょっと広がった。

 木はもうないけど、ある。

 テスは、もう泣かなくなった。



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「謝罪の王様」という、阿部サダヲ主演の映画でも。

 人気ラーメン店で、ラーメン職人が湯切りを思いっきりした際、熱湯の飛沫が阿部サダヲ演じる黒島(東京謝罪センター所長)の頬に飛んでしまう。「熱っ!」

 一言、「すいません」と謝ってほしかった黒島。

 でも、その頑固職人は一言も謝らない。

 しまいには店長やその他直接関係ない人たち(しまいにはチェーン店の地区統括部長まで)が、黒島に必死で謝り、様々な弁償案や改善案を言ってくる始末。

「あのね、そういうことじゃないんだよなぁ……」

 何か補償してほしいわけじゃない。謝罪してもらえるなら、誰にしてもらってもいいわけではない。相手の親や上司に出てきてもらったところで、納得いかない。

 まさに「その本人」に謝ってもらわない限り、大げさな話「一生」そのしこりは消えない。このようなことが種となって、私たちがよく言う所の『ごう』 というものが生じる。もっと馴染みのある言い方では、カルマとなる。

 それに振り回されるのがこの世ゲームの内容であり、ゲームで勝つにはそれを解いていくということになる。ただ、現実の事情はそれが解きにくいように邪魔してくる。現実的事情だけでなく、プライドとか見栄とかいうものも、素直にそれをしにくくする。



「テスの木」という絵本で訴えているのはグリーフワークの大切さであり、もっと根本的な問題では「人は何事も納得というものを必要とする」ということである。

 真実は、極端な話重要ではない。肝心なのは、悲しみや不幸を背負うことになった本人が、いかにして気持ち的な落としどころをつけるか、というところである。

 その手助けをしてやれるのが、本来はスピリチュアルカウンセラーの役割である。

 何も、高次元のことやびっくりするような誰も知らない目に見えない世界のからくりを説明してみせることだけが、スピリチュアル指導者の本領ではない。これができないですごいことだけ知っていたり語れたりしても、三流である。



 テスの木という絵本では、木はもう切り倒されてこの世からいなくなった。

 一番いいのは、木がまったくもとのまま戻ることだろう。でも残念ながら、覆水盆に返らずのこの世界ではそういうことはできない。

 だが、まったく同じものが戻らないとしても、人はあるひとつのことさえあれば生きていける。たとえその他の何を失ったとしても。そのひとつとは——



●失われたという事実に対する、あなたのしっかりした解釈。

(その解釈は、本人さえ受け入れるなら特に正解というものはなく、何でもよい)

 その結果、失われたもののことを思い出したとしても、ちょっぴり痛みが胸をよぎる程度で、感謝が湧きこそすれそのことがあなたの今を阻害しない、というのがそれができているかどうかのバロメーター。



 私たちは、日々何かを失う。

 先日、かれこれ15年ほど筆者の実家で生きたネコが死んだ。ささやかながら、そのお葬式もした。

 結婚して実家を出るまでは、私もその猫と過ごした期間がある。私はまだいいが、実際に死ぬまで世話をし続けた両親の心は、察するに余りある。

 でも、二人とも気丈だった。

 父は、表向きはぶっきらぼうに「ネコの葬式なんか人間並にせんでもええ」という言い方をして葬式には不参列だったが、実は一番誰よりも悲しんでいたのではないか。頑固なオヤジなりの、悲しみの耐え方だった。とても出られない、というのが本当のところだろう。



 喪失は、お金を積もうが何をしようが、止めることはできない。

 そんなことに抵抗しようとしても甲斐がないので、喪失をいかに受け止められるか、のメンタル的な下地を作っておくことが大事。それが「人生」であり、それは直接生きる強さにもつながる。

 強さとは、物事を心に受け入れることのできる幅である。無理をしたらすぐ分かるので、こればっかりは背伸びができない、誤魔化せない部分である。

 これに関して意図的に計算ドリルみたいに訓練することはできないので、ただ目の前の一日一日を正面から生きていく、というくらいしか一般には手が打てない。

 いきなりインスタントに喪失を受け入れることはできない。

 テスも、泣き疲れた後でしかグリーフワークを思いつけなった。

 謝罪の王様の黒島も、事件後かなり経ってやっと謝ってほしい店員が現れた時に、解放を体験している。プロの謝罪職人、といえど彼自身も顧客と同じ「人間」だったのだ。



●同じものは残念ながら返ってこないよ。でも、それがこの世界に存在し、また去っていったその意味をあなたなりに整理できたら、まるでそれがまた生き返ったのに負けないレベルの、心の平安がやってくるよ。

 急がなくてもいい。内側に溜まったものをきれいに吐き出してからしか、次のことに気付きにくいのだから。

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