オリビアを聴きながら

 出来心でというか、興味本位と冷やかしで『貞子vs伽椰子』というホラー邦画を見た。「リング」シリーズの貞子と、「呪怨」シリーズの伽椰子が激突する。これ一応ホラー映画なんだが……ちっとも怖くない。

 急に大きい音がしてビックリさせられる以外、何も恐怖を感じなかった。っていうか、むしろ笑えましたが。これ実はコメディじゃないの?って最後は思った。

 もはや、ゴジラ対モスラ、みたいな対戦もの。怖がるとかいう以前に、いったいこの二体をぶつけあったらどんな結果になるのか、という興味本位で楽しむ映画と化していた。

 もうこれ以上、本格ホラーとして「貞子」や「伽椰子」を利用しない方がいいかもしれない。なぜって、もう皆怖がってくれないから。

 こんな映画を作られて見てしまったら、この映画を思い出すたびに思い出し笑いをしてしまう気がする。怖がる場面で笑えちゃったら、ホラー映画としては終わっていると思う。

 貞子も伽椰子も、プロ野球の始球式にまで出るくらい人気者になっちゃったから、怖がれと言われても……ねぇ。もう、筆者の中ではふなっしーと同レベルなんで。



『リング』という作品が初めて世に出たその昔、当時は本当に怖かった。

 松嶋菜々子が主演した映画には劇場へ足を運び、絶叫してきた。(笑)

 映像の前に、鈴木光司の原作本も読んだ。文字情報とは言え、それでも怖かった。怖かったと同時に、そこに何か怖がらせるだけで終わらないメッセージ性を感じた。

「らせん」に続く続編 『ループ』などは、ほぼ悟り系スピリチュアルの話である。

 この作品の宇宙観は、私がテラとして持っているものとだいぶ似ている。



 でも、時の流れ、というものを感じざるを得ない。

 あの時、あれほど怖かった貞子。

 あれほど、重厚なストーリーで惚れ込んだシリーズ。

「貞子3D」あたりから、もうまったく別物になってしまった。筆者は、貞子vs伽椰子を見てニヤニヤ笑いながら、でも心では泣いていたかもしれない。

 ああ、もうあの日々は二度と戻らない——劇場から帰る車中、頭の中で『オリビアを聴きながら』という曲がリフレインした。



 筆者がこういうメッセージを発信し始めて10年近い月日が経とうとしている。

 私のスピリチュアル的な主張の柱の一角は、『諸行無常』である。

 この世界に、確かなものなど何もない。時という魔法が、良い意味でも悪い意味でも、物事を少しずつ変化させていく。

 その瞬間を観察するだけでは、何も動いていないように見える。しかし、時間を重ねるとそれは着実に、あなたとその周囲の風景を変えていく。ずらしていく。

 人は、それに直面した時、様々な感情を噴出させる。変化には、悲しみや苦しみという側面もあるだろうし、逆に喜びや幸せを感じさせる場合もある。それは人により場所によりタイミングにより、無数の顔を見せる。



 明らかに時代は変わった。

 今後は、急流すべりのくだりである。

 これまでは、急流の前ののどかな風景を見ていられた時期だったので、比較的楽観的に、のほほんとできた。しかし、同じ気持ちでいると、突然出現する急流にびっくりすることになる。心構えができていない者から、衝撃をもろに被ることになる。

 もう、数年前のことが大昔に感じられるほどに、今後短いスパンで重要な社会的事件が起き続け、話題に事欠かないだろう。そんな刺激性の強い情報の嵐の中、しっかり立っていないとあなたはたやすく呑み込まれてしまうだろう。

 自分の立ち位置がどこで、自分が何者かさえ見失うだろう。そして日々起きる目の前の出来事に翻弄され、埋没していくであろう。油断すれば、気付けば人生の最後を迎えてしまっている、という事態にもなりかねない。



 筆者も人間なので、人並みに色々なことを感じる。

 周囲の変化や自身の立場の変化に、無感覚ではいられない。

 人間としては、もちろん自分の都合の良いことが起こってくれるのがいい。しかし、私が到達した境地は、皆さんの馴染みの言葉で言えば「サレンダー」である。

 でもそれは、まったくお手上げの、自分からは何も積極的にしない、という単純な意味でのそれではない。行動として、しっかりとしたほうがよいと思うことはしながらも、その行動自体が「我ならぬ我(でも結局それも我)にガイドされた努力」なのである。

 逆説的だが、サレンダーした結果、色々なオーダーが受け取れるようになったのだ。それをこなしていると、(仕事がなくても)日々結構忙しい。(笑)



 ここまできたら、受け入れてそれでも進むしかない。

 筆者はとうに、自分の名誉を捨てた。

 その意味合いとしては、「人からこう思われたい、という願望を捨てる」という意味合いである。決して自分がゲスい人間になって嫌われても構わない、というニュアンスではない。

 今も昔も、私が絶対に変わっていないのは「内なるオーダーに従い続けている」ということ。そんな中、「本当にやりたいことを、やりたいとおりにやり続けることは難しい」ことを実感する。

 私には、これまで多分何度も妥協する機会があった。たらればの話は好きではないが、もしその機会を使っていれば、もう少しだけ長く売れていたかもしれない。

 でも、そうやって何か得ても、それは「何か違う感」が満載である。だから私はやせ我慢とかではなく「本当にこれでよかった」と思っている。

 最初こそ、それまでの反動で寂しかったが、誰とも関わらないでやりたい時間に好きなように発信できる今の状況は、これはこれで最高だと思うようになった。

 まぁ何と自由で、伸び伸びできることよ! オカネはないけど……



 今ですら数年前と比べた変化に驚いているのだから、これからの時代ますますそれが激しくなるであろう。人によってはあまりの目まぐるしさに、油断すれば自分の軸を失うだろう。 (軸とは何だ? と問う人があろうが、それはセルフサービス。たまには自分で考えろ)

 それこそ、『オリビアを聴きまくる日々』になるかもしれない。

 でも今、筆者は不思議とやる気に燃えている。残りの人生シナリオ、一体どういう風景が待っているのか——

 たとえそれがどんな内容だとしても、最後の瞬間まで逃げずに、受け止めきってやろうと思っている。結果がどうかよりも、「あの時ああしなかった」という後悔がないようにだけはしたい。

 宮本武蔵の残した言葉『我、事に於いて後悔せず』。

 他人の目からはパッとしない最後でも、私個人の中では「絶対後悔しない」人生として終わる決意でいる。最後の死の瞬間、聞こえてくるのは他人の評価や噂話ではない。まさに、自分の内面が自分をどう思うか、の自己評価だけしか感じることができないのである。



 もちろん、他人の評価をおろそかにすべきでない場合もある。決して、無視したりないかのように振る舞うべきではない。

 でも、人生途中ではある程度意識をそこに割くとしても、最後の最後は「自分を自分でどう思うか」だけがすべてになるんだ、ということだけは覚えておいて、ラストスパートはかけてもらいたい。

 個としての人生の最後も、まるで「オリビアを聴きながら」回顧して総まとめしているような感じなるのか? と勝手に考えていると、ちょっと笑えてきた。

 そこに、貞子vs伽椰子の珍バトルさえ記憶に甦ってきて、さらに笑いが。



 トムとジェリー。

 貞子と伽椰子。

 仲良くケンカしな。

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