問題解決そのものよりも大事なこと

 問題解決においては、当たり前の話だが「問題解決」そのものが一番重要だと思われている。

 借金問題なら、借金をきちんと返すことだし。成績が悪いなら、勉強して実際に成績を上げることだし。人ものを盗んだり、壊したりしたら返して謝ることであり、弁償することであり……

 でも、深く人生というものを洞察していくと、必ずしも問題を解決することが、最高の解決となるとは限らないということがある。

 短絡的に、これが問題ならこうすれば解決じゃん、ということがなされるだけでは、実は不十分なことというのはよくある。借金の例で考えてみよう。



①借金をしたら、お金をちゃんと返せばそれだけで解決か?



 結局、その人の内面の成長がないと意味ないだろう。

 ただ「借金を返した」事実だけでは、その人がもう懲りて二度と 「借金などしない」 と心を入れ替えたのかが分からない。

 現実面で借金を清算できたと同時に、その人も新たな内面的出発ができたのか? でないと、その人は後にまた借金して、同じ過ちを繰り返すかもしれない。

 後に同じ失敗を繰り返すなら、今現実的に借金問題を解決できても、何ら安心材料にはならないのだ。



②成績が悪ければ、成績を上げたらそれでいいのか?



 カンニングをしても、他人のノートを借りたりまる写しして提出しても、うまくすれば成績は上がる。また、不正をしないにしても、その人物が隣人たちにまったく優しさを示せない人間ならば、その成績が上がったことが、どれほどの意味をもつというのか?



③人のものを盗んだら、返して謝ればいいのか? 壊せば、同価値のものを弁償すればそれで終わり?



 本当に反省しているかどうかだろう。

 バレて仕方なく弁償したり盗品を返したりしても、形だけ謝っても意味がない。

 謝られるほうも、その辺は分かるので、適当な謝罪を受けてもうれしくも何ともない。肝心な点は、弁償したか謝ったか以上に、本人が同じ過ちを繰り返さないという気持ちになり、成長の肥やしとできたかどうか。その失敗経験がムダにならず、次に生きたかどうか。



●問題解決そのものよりも、他に大事なポイントが隠れている場合がある。

 そこをかぎ分けるセンスこそが、より良い人生を生きるために必要とされている。



 例えば、子どもの例で考えると分かりやすい。

 大人が、コップにジュースを注いで飲むのを見て、幼児が「ホシイ、ホシイ」と言ったとする。

「そう、ジュースが飲みたいのね」と大人は単にジュースを与える。

 しかし、それで子どもが納得しない場合というのがある。ありがとうどころか、ムキーッとなって怒る場合もある。合理的に考えたら、相手はジュースを欲しいと言ってるのだからそれを与えれば問題解決、ということになるが、実は子どもの中ではそれだけではダメなこともある。



●実は、ジュースをコップに自分で注ぎたかった。

 ただジュースを得たいだけでなく、そこからちゃんとやりたかった。



 そこがつかめないと、要求通りにしてあげたはずなのに納得しないので「一体どうしてだ?」とイライラすることになる。本当に大事なポイントは、表面的に分かりやすい問題(ジュース欲しい)ではなく、ちゃんと相手の立場に立って考えてあげないと見えてきにくい問題(自分で入れたジュースが飲みたい)にあるわけだ。

 幼児は語彙が少ないので、自分でジュースをコップに入れて、それを飲みたいという正確な情報を伝えられない。それは、こちらが察してやるしかない。



 以前、橋下徹氏が沖縄で起こった米兵による女性遺棄事件に関して、「風俗を利用すればいい」という趣旨の発言をしたことがある。

 これなども、「問題の表面的な解決」にばかり目がいき、隠れた本質を見逃しているという例である。橋本氏は、この発言から分かるように、男性が性犯罪に走るのは単純に性的なはけ口の問題、つまるところ「欲求不満」が原因だと考えていることが分かる。

 風俗を利用して性欲を発散すれば、問題は起きなくなる、と。だが、賢明な読者様なら、問題はそんなに単純ではないということが分かるであろう。



 単に、性欲だけのことではないのである。

 過去の辛い体験、受け止めきれない衝撃。コンプレックスから来る怒りや恨みのベクトルをもつエネルギーの暴発。好きになれない、こんな自分に社会がした、という解釈から来る復讐心。満たされない、愛されたいという思いの、素直に出せなかった裏返し——。

 ただ単に風俗行け、スッキリしてこいとは、何という考えのなさすぎる妄言か。



 今の時代、人々に何が求められているか?

 問題解決能力はもちろんであるが、プラスアルファして「かゆいところに手が届く」人材。目立った問題とその解決以外の「急所」を見定められる力。

 それは、子どもがジュースを欲しいと言う時に、実はコップに入れる所からやりたいんだ、というところにたどり着ける能力のことであり、それは相手に関心を持つからこそ探り当てられるものである。

 人はそれを、愛と呼ぶ。

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