楽して稼いでいるように見えるか?

 うちの二番目の子、ハルヒ君は散髪が苦手である。

 現在小学一年生で、散髪は気が進まないらしく、髪が伸びれば行きはするがしぶしぶ行く感じである。現在はそれで済むが、保育所通いの時代はさらに苦戦していた。

 当時、本人の語彙力がまだないので、髪を切るのがイヤな真の理由は分からなかった。想像するに動いちゃいけないよと言われるプレッシャー、とがったハサミが自分の周りで動き回る恐怖心……そんなところなんではないか。

 こちらとしては嫌がるからと放っておいた髪が伸び、時々「女の子ですか」と声をかけられることも昔はしばしば。



 そんな時某所に、「子ども専門の理容店がある」と聞いた。

 宣伝を見てみると、座る椅子が車の形をしている! 遊園地で乗るゴーカートみたいになっているのだ。なるほど、子どもが楽しいように工夫してるんやな——

 近所へ切りに行くよりも少し遠かったが、あえてそこへ足を運んだ。

 椅子のこと以外にも、随所に子どものための「工夫」や気遣いがなされており、なかなか素晴らしいと思った。それでもハルヒ君は手ごわくちょっとは泣いたが、近所の理髪店では激しく抵抗したのであきらめたことを考えたら、やりきってしまえるとはなかなか大したものである。

 筆者はというと、待合室で流れていた戦隊ヒーロー番組「シュウオウジャー」に見入ってしまった。散髪した本人より私の方がエンジョイしたのではなかろうか?



 ……で、結構なお値段がした。フツーに近所でカットする倍以上は取られた。

 でも、これも「付加価値」だと考えた。

 ただ髪を切るだけでなく、特にうちらは子ども専門に特化し、飽きさせない、ケガさせない確かな技術を提供してますよ!という自負があるにちがいない。

 それが値段に反映している。お客は、納得したら文句は言わない。



 筆者のような仕事をしていると、時々実情を知らないやつらがイヤミを言う。

 二時間しゃべるだけで結構な額が入ってくるんでしょ? 調子の良いこと好きなようにしゃべって、お金も入ってくる。ボロい商売よね! 時給千円でコツコツ働くのがアホらしくなるよね——

 まず言うが、こういう目に見えない世界(スピリチュアル)に関わる仕事は、ある意味の「専門性」がある。誰にでもできるわけではない。

 もし、誰もが簡単に指導者のようになれるなら、この数千年の歴史のどっかで世界は素晴らしくなっているはずだ。恐らく、この先十年も(そんな歌があったな……)百年も、一定少数の「指導者」と支持するその他大勢が、一定の比率で存在する状況が保たれるだろう。

 私らは、詐欺じゃないなら「専門職」である。

 さっきの、こども理容みたいなことである。世には悩み相談やカンセリングなど数多ありますけど、特に「悟り」の視点からのアドバイスをウリにしています。あるいはどこぞの高次元(ハイヤーセルフや天使など)からのチャネリングでメッセージをお伝えします、とか。

 だから、通常より割高になる。それは、それだけの付加価値(特別性)を、与える側が「ある」と自信を持っているからに他ならない。(何度も言うが、確信犯的詐欺は例外)余分にいただいて、何ら問題はない、と。

 逆に、これだけいただくのはあなたのためだ、とまで言う人もいる。思いやりである、と。なぜなら、この話を聞いておいて、それにふさわしい代価を払わないとあなたに何が起きるかというと……みなまでは言うまい。



 例えば筆者は、業務の一つとしてメール鑑定というのをしている。寄せられた悩みや質問に対して、文章でお答えするもの。

 たとえばだが、今この記事を読んでいるあなたが何か作文して、それをお金を払ってもらって他人に読ませると考えてみよう。できると思う? みんな、あなたの書く文章にお金払うかしら?

 大抵の人は身ぶるいして、「やめときます」「できません」と言うだろう。

 じゃあ私はなぜするのか。傲慢とか、自慢とかじゃなく「お役目」だからできるのだ。文章において他者より「専門性」を持っているからだ。

 お金をいただいて恥ずかしくない文章を書いている、と私は思っている。

 スピリチュアルの指導者が、好きなようにしゃべって書いて本を出して、何か世間一般よりラクをして大金を稼いでいるようなイメージのあるあなたへ。

 実際になってみればわかるが、これだけは言っておく。



●むちゃ大変です。安易にやると危険です。

 いただく金額分相応のリスクを負います。



 世の中、楽して稼げるなんてないと思ったほうがよろし。

 この世界は幻想だが、一応幻想なりに細かいルールがある。

 主には、有形無形の「力学的法則」だが、人間はまだすべてを見切ってはいない。

 誰の目にも明らかで実際的な「物理」や「科学」のものはちょっとは分かっても、目に見えない精神世界における 「想念的なものが起こす力学的干渉」や「意識が現実に働くことのできる領域と、どう意識が頑張っても変えられない事柄との境目はどこにあるか」など、そういった世界はちっとも証明できる理屈がない。だから、色んなスピリチュアルが色々なことを言っても、とりあえず野放しになる。

 あなたの目から見て、悪事を働いたり楽に、卑怯に稼いでいる人がいても放っておきなさい。



●必ず、したこと相応の報いを受けることになる。



 これを、単純には因果というが、私がここで言うものは人間が単純な頭で「こーだからあー」と言ってしまえるようなものではない。それこそ無数の力学的干渉があってすべての現象が起きているので、人間には永遠に「正しい因果」は指摘できない。

 たとえば、「勉強を頑張ったので、試験に受かった」。

 これは、まったく因果を正しく言い当てていない。出された問題、採点者のムシの居所、他の受験者の不調、その時の平均点や足切り点、経営側の都合……それこそ、あらゆることがそこの結果に関わっている。



 だから、人間の単純な目には、悪人がいい目を見ているように観察されることもある。正直に生きている人が、バカを見ているように見えて、やりきれない思いになることもあるだろう。だが、すべては帳尻が合うように処理されるのがこの世界の流儀だ。ただ、人の目には分かりやすくは来ない。

 遠い他人からしたら、お金儲けて幸せそうに見える人でも、本人の胸のうちは全然別だったりする。

 人によっては、あえて抑圧して「自分は幸せだ。すべてはうまくいっている」と思い込もうとしているだけかもしれない。あと、因果の取り立ては本人に直接悪いことが起きることで済むとは限らない。聞くが、あなたの愛する者がひどい目に遭う方が、あなた自身に何かある以上に辛くない?

 皮肉だが、これぞ「あなたは私。他人も自分」。



 まぁ、複雑なのだ。

 もちろん、「システムの向こう側」は人間的な感情や思考には縁がなく、全然違う価値基準で動いているため、別に我々に「意地悪」しているわけじゃない。

 人間が科学や医療の研究でモルモットを使う時、相応の命として扱ってます?

 一匹世のために殺したら、その夜は泣き明かす科学者を見たことがない。

 動物にはするくせに、自分が上位次元からされたら怒るのか。



●過程は個別に複雑だが、必ず起きたことは力学的に自然な方向に回帰していく。

 それが遅かったり速かったり見え方が色々なので、人間側は混乱する。愛や善が最後は勝つのか、それともそんなことは一切関係がないのかで混乱する。

 ただ言えるのは、人間の感情や解釈に関係のないところで、すべての物事は落ち着くべきところに落ち着く。その流れは、人智を超えたものである。



 ただしゃべって大金が入ったら、確かに同じ時間をコンビニでバイトした人の十倍をもらっていたなら、どっちがいいと言われたら誰でも前者がいいと言うだろう。誰だってできたらそうしたいだろう。

 でも、裏でその分、スピリチュアルを道具にして少なからぬお金を手にする人間は、コンビニで立って時給千円を稼ぐ人の数十倍、目に見えない世界でお荷物を「背負う」ことになる。

 もちろん、それを背負う霊的体力があるならよい。それでも潰れない(普通に生きていける)強靭な胆力があるなら問題ない。

 ただ、それなくてやっていると、えらいことになる。それを考えると、ちょろっとやろうとしてみてうまくいかないであきらめる人は幸せ。

 悲惨なのは、口がうまいか時流に乗ったかして、たまたま「当たって」しまう人。

 その末路は、考えただけでも……



 一部のスピリチュルで、ガッポガッポ無限に稼いでよい、限界などバカな制限は取っ払ってどんどん行こうよ、とやたらポジティブに主張するものがある。

 筆者は、それはちと調子に乗り過ぎたメッセージであると思う。

 例えば会社企業などで、まっとうな手段で稼いだ利益であるならば、そりゃ資本主義社会なのでより稼ぐのは自由だろう。だが、スピリチュアルはそういう商売とはフィールドが違うことを忘れてはならない。お金には、少なからずそれを稼いだ人の「想念」がこもったものをもらう。(コインや紙切れの中というより、付随してついてくるエネルギー)分かってない指導者は、それらを皆同じお金と思い、量が金額が多ければ単純によいと考える。

 


●大金を稼ぐと言うことは、その大金に絡んだ者たちの想いも引き受ける、ということである。

 その器と覚悟がないと、常に心を配っていないと、吹き飛ばされる。ハッピーで楽し~ばかりでそれが保てるほど、このハードモード地球ゲームは甘くない。



 大金を稼げないのは、罪悪感や心理的ブロックや劣等感がどうでこうで……やりたいことを思いきっりやって、心の底からワクワク楽しいになれば、いくらでもお金は入るだと?

 私からしたら超盲目的な考えだが、好きならそうすればいい。

 皆さんのお好きな考え方ではないようだが、残念ながら「責任」というのは問われる宇宙次元なのだ。

 そしてその「責任」に関する目に見えない世界での取り決めが、人間側の頭では理解しきれないほど条項が多くしかも多面的なので、人は「この世は不可解なり」という感想をもってしまう。



 お金をいただくということは、くれる人たちに責任をもつということである。

 それをいただいて、なお自分はお天道様に恥じることなく立ってるよ、ということを行動で証明し続けるのが我々のやっている商売の義務である。

 ただ楽しい、やりたいことをやっているでは、やがてその活動はあらぬ方向へ流れていく。

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