やりすぎは執着か?
先日、こんな質問を受けた。
「求めすぎたら、それは執着となりますか? 願望実現にはマイナスになりますか?」
んと、私は引き寄せとか願望実現関係の話題は、『超』が付くほどの専門外なのだが……それでも、あえて言いたいことがある。この「執着」という言葉に関しては。
皆、言葉の意味をはっきりさせずに使っているので、混乱が起きる。さて、意味としては——
●事物に固執し、とらわれること。
しかし、この説明だけではまったくの無意味。
一見執着と見えても、よく観察すればふたつのタイプがあることが分かる。
①対象物に、とらわれている。対象物が主体で、あなたは対象。本質は「恐れ」。
②こちらが主体として、対象物を追っている。本質は「夢中」と「極める」。
人間が必死で何かを求めるという時、ふたつの状態がある。
あなたの中で、自分以外のあるもの(具体的な何かでもいいし、他人の気持ちや地位など無形なものでもいい)が、自分自身に置いている価値と同等か、下手をしたらそれよりも上に考えている場合。それを得ることで、自分の値打ちがが上がるのでは、という希望を置いている場合。
あなたは、必死にそれを求めるが、あなたの生活の中心、人生の中心はその「何か」である。「何か」が実権を握っており、あなたはそれに隷属する立場である。
つまりあなたが、望む何かの「あやつり人形」になっている状態だ。あなたの選択・意思決定がすべてその「何か」を中心になされてしまう。
また、そこに「これだけ大事にしているのに、これだけ追うのに犠牲を払っているのに、もし得られないなんてことになったら、どうしよう?」という恐れが根底にある。これこそが、「ザ・執着」である。
しかし、起きていることは一見すると執着に見えるが、実はそうでない場合がある。何かを必死に追いかける、という現象上は同じでも、あなたがその何かに「振り回されているわけではない」場合がある。
あくまでもあなたが主人として、その「何か」を追うことを主体的に「楽しんでいる」場合である。あなたが、人生の主人の座をその「何か」に乗っ取られることなく、その「何か」は決して主人であるあなたを脅かすことはない。
あなたがそれを追うことに関して多少の「無理」をすることがあっても、その無理すらあなたが自分の権限で望んでいることであり、決して振り回されているのではない。また、そこに後悔(ああするべきでなかった、あるいはしておくべきだった)という感情が湧いてこないという特徴がある。
ではここまでの議論を踏まえて、振り回されているのと振り回しているのとの違いは何か?
●そこにあるのが「恐れ」なのか、それとも「充実」なのか。
執着の場合、表面上はそれを求める行為が楽しく、自分のしたいことであったとしても、傾向としてやればやるほど辛くなっていく。気持ちだけでなく、体も疲れてくる。だんだんエネルギーの減少化が起き、気持ちがしぼんでくる。
これではいけない、と思ったあなたは美味しいものを食べたり買い物をしたり……何でもいいが、別口で自分が元気になれることをして、エネルギーを補充する。
そして、そうまでしてまた同じものを追いかける。でも得られる前にまたエネルギーの減少化が起き……と、延々とこのサイクルを繰り返す。
執着の特徴は、それを追うことだけでは十分なエネルギーが自力で得られないことにある。
他で補充しないと、油断したらしぼんでいく。行動すればするほど、比例してエネルギーは消費されていく。他でエネルギーを稼ぎ補充することに疲れた時。バカらしくなった時、夢から醒めた時に、あなたは「もういいや」とそれを手放せる。
これが、「執着と気付き手放す瞬間」である。
『ガラスの仮面』という名作漫画の主人公、北島マヤの場合を考えてみよう。
この人物は、超が付くほどの「演劇バカ」である。
弟子が弟子なら、師匠の月影先生も異常なほどの演劇人間で、無茶苦茶な特訓をこの二人はしょっちゅうする。で、納得するまでやめない。
二日寝ないで休憩しないで稽古をし、最後二人ともぶっ倒れる、なんて描写もあった。さぁ、これって執着になるのか?
いくつかの点から、これは執着ではない。
①「恐れ」の要素がない。負けるかも、とか失敗したら、などという心配は微塵もない。
②一見無茶だが、振り回されてるのではない。むしろ振り回している。自分が主人として。
③人間だから無茶をすれば疲れるのは当然だが、この場合かなり燃費がよくなる。
④楽しいので、エネルギーがそこ自体で自家発電でき、奇跡的な無茶や頑張りができてしまう。他でエネルギーを量産しなくてさえ、枯渇しない。だから「何とかバカ」という名誉な称号が与えられる。「空手バカ」「テニスバカ」「陶芸バカ」とかね。
あなたがあくまでも人生の主人公として、あまりにも楽しいので(あるいは極めたいという突き動かされる情熱から)やってしまう多少の無茶は、決して執着などというちゃちいものではない。
何でも求めすぎ、やりすぎが執着になる、というのは理屈として単純すぎる。そんなことはない。
あなたが、馬の手綱を握っているのなら。そしてそこに恐れや損得よりも、ただ「あなただけしか見えない」という恋した状態のように、ピュアにそれだけが見えているなら、まさにそれは執着などというものをはるかに超えた「極めるための美しい行為」とさえ言えるだろう。
「無理をしない」などということを言っていたら、この世界に「一流」は育つか?
一流のスポーツ選手。将棋や碁の名人。作家、漫画家、音楽家、芸術家……
皆、無茶や常軌を逸した特訓をしている。一般人から見たら異常なほど、それに懸ける時間がケタ違いに多い。他に何をして生きてるんだ?というほどに。
私はかつて『セッション』という外国映画をオススメしたが、あれもそう。その世界を目指す価値が分かる者以外には「頭おかしんじゃない?」と言われるだろう。
でも、彼らにはおかしくはないのである。
この世界において、それぞれの分野において「一流」と呼ばれるものが燦然と輝いていて、この世界に華を添えているとしたら、それは異常なほど何かを極めた人がいたおかげである。
だから私は、あくまでもあなたが本望なら、無茶もいいと思う。
その場合、求めすぎは決して、執着という汚名を着せられるべきものではない。
どんどん、バカになろう。気が済むまで、とことん行こう。そんなあなたが、その分野を牽引していく「お役目」を負っているかもしれないのだ。
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