有名人というゲームソフトのルール

 時折世間を賑わせるのが、有名人が不祥事を犯すというニュース。

 不倫・交通事故・脱税・麻薬。そこまで重いことではなくても、発言に批判が集まるとか。最近特有なのでは、コロナ禍の非常事態宣言下でパーティしたとか。

 有名人が不祥事を犯した時に、世間に徹底的にたたかれるのは「公人のくせに」という感情のせいで、これはジャイアンやスネ夫が「のび太のくせに」と腹を立てるのと構造は同じである。

 そこで今回の記事の話題の焦点は、「有名人」というのは一体どういう自覚と責任をもってやるべきものなのか、について考えるところにある。



 さて、まずは「有名人」「著名人」の定義から。



●自分に関わる身近な人間だけではなく、自分が直接知らない人まで自分のことを知っており、その数が「一般人である」と言える限度を超えている場合。直接面識のない大勢が、あなたの言動に注目し、追っている場合。



●あなたがあなた自身の名前で活動した場合、無名な人が社会で何かを言うよりもより大きな影響力を最初から持つ場合。また、世間一般的な労働対価であればそれほどの額にならない(無名な人が一時間ただ立ってしゃべったり歌ったりするだけ)が、その人がそれをすると莫大な対価(数十万から数百万)が支払われる場合。その場合、しゃべったり歌ったりという労働そのものへの対価というより「その人だから」という部分でお金になっている場合。



 筆者は、一般人……つまり「置かれた場所で、圧倒的に互いに知り合っている関係同士の中だけで人生が送られていく」人生コースと、有名人の人生コースは別物と見ている。 

 双方に特徴的なメリット・デメリットがあり、いいとこどりは不可能である。

 一般人は莫大な収入も名声もないが、犯罪でも犯さない限り比較的に平穏が保証されている。

 有名人は、自分が知らない人までもが自分を知っており、影響力に比例した収入を得るが、一般人ならまだゆるされることでも問題にされる場合がある。また、何か失態を犯した時に、一般人が同じことをした場合の数倍から数十倍のダメージが来る場合がある。

 自分がコントロールできない世界で、他人に勝手にイメージを作られ、自分自身の釈明ではない情報が独り歩きして拡散され、有名人は何かあった場合に自分の意見だけでは収拾が付かなくなる。



 一般人は、有名人になったことがないだけに、簡単にあこがれることができる。

 ちやほやされる、高収入など、いいところだけしか見ずうらやましがる。

 有名人を目指す者がいたとして、本当にそのコースを行く場合のリスクを背負う気があるのか?

 不特定多数があたなを知っており、あなたの言動が注目され、なにかあればワッとたかられる。まさに、ハイリターンではあるがハイリスクなのが、有名人の道。

 まさか、その覚悟や自覚がなかったなんて言わせない。



 スピリチュアルな発信の中でも、こういう意見がある。

「起きた出来事だけを攻撃して、その有名人をダメとする (今の立場から引きずり降ろす)のは、間違っている。その人物の書いた著作を読め。世間を勇気づけてきた実績を振り返れ。私たちは彼(彼女)からもらった感動と勇気を忘れてはならない。今回のことで、それが色褪せることはない」

 この意見は、一見もっともに聞こえるし、優等生的な答えに思える。

 でも、筆者から一言。



●お前ら、甘い。

 ここで不祥事を犯した有名人をかばうのは、甘っちょろい「愛のバッタもん」だ。

 ルール違反を犯した者は、容赦なく世間が与えてくる沙汰を受けろ。

 高く積み上げてきた積み木も、倒れたなら下の方まで全部崩れる。

 それが、この世界で大勢の想念を背負う立場のけじめだ。



 忘れてほしくないのは、不祥事を犯したのは一般人ではなく「公人」であるという点。有名人というのは、世間に夢を売る仕事である。イメージで食っている。

 本人が実際にどんな人かなど、大して関係がない。そんなことを知れるのは、親や配偶者や子ども、プライベート上の親友だけである。その他大勢は、テレビ画面やニュースという情報を媒介として、想像されたその人のイメージで捉えている。

 その期待を裏切らないことが、有名人の義務である。

 厳しいが、たとえ不注意や不可抗力であろうと、それを裏切る結果となる出来事が起きてしまった場合、即責任をとらねばならない。潔くゲームオーバーを認める。

 もちろん、あきらめず名誉挽回を図ってもいい。いいが、建物を壊すのは一瞬でも、またいちから建てるのは時間がかかる。ましてや、不祥事を犯した場合は新しい建物を建てる以前に、先ほど壊れた建物のがれき撤去作業が残っている。そっちが先で、そのあとまた時間をかけて建てることになる。



 過去にものすごく評判がよかった有名人が不祥事を犯したとする。確かに、その人物がこれまで成した偉大なことは、不祥事によって消えるものではない。

 でも、なんでそれと今回の不祥事を混同する? 同列で語る?

 過去は過去。今は今。別で語るべき問題だ。今、夢を与え勇気を与えてきた立場の人がそれを裏切ることをしたのだから、アウト。

「人間なんだから間違いを犯す」とかばう人もいるだろう。一例を挙げれば不倫であれば、「不倫のひとつやふたつ、いいじゃん」みたいに、性に関して進んだ考えの方もいるだろう。



●有名人は、その分野においてふさわしくない行動が明るみに出たら、終わり。



 その覚悟で有名人をやっていただかないと、困る。

 話が変わるが、ちょっと特殊なのは「スピリチュアル業界」。

 思想や信条の世界は、そもそも広い視野を持つためにあるようなものなので、受け入れられることの幅が広い。性の解放を訴え、今までの一夫一妻制や、不倫を悪としてきた常識をこそ打破すべきだと言う指導者が不倫をしていても、さほど問題ない。

 新しい時代は心の望むままに関係をもってもいいではないか、と日頃から言っている人を見て、不倫していても誰も攻撃しない。

 それどころか、普段の主張と矛盾しないので、逆にハクがつく。

 しかし、政治家や芸能人などの有名人は、スピリチュアルとは関係ない。いわば今の一般常識を守る側に立っている。

 教育界というものはまさにそうで、家庭は大事にしよう・結婚相手とは愛をもって添い遂げ、子どもたちの健全な育成や人格形成のためにも、両親仲良くして手本を示さねばならない、というのがモットーのはずだ。

 そういう世界の人、学校の先生や教育界での有名人などが不倫をしたとか未成年と淫行したとか報じられた日には、ものすごくアウトなのは分かるだろう。

 


 誤解しないでほしいが、だからこそ不祥事を犯した有名人を責めよ、攻撃せよ、今の影響力ある立場から降ろせと言いたいわけではない。



●かばわず、放っておけ。



 あとは、国民の総意(集合意識)が大体の流れを決める。

 それに任せておけばよい。

 筆者は批判もしないし、かといってかばいもしない。

 ただ、経緯がどうあれ結果は結果だ。そこは言い逃れできない。

 一般人以上にリスクと責任を負う立場だということは、頭が悪くないなら分かっていたはずなのに、ツメが甘かったことは返す返すも残念だと思うだけである。



 筆者は、小学生の時ある行事の実行委員に任命された。

 ひとクラスから一人選ばれ、全学年が集まって色々なことを決めていく。

 実行委員会の指導の先生から、次の集まりの時までに、あることに関して「案」を考えてくるように、という宿題を出されていた。私はそのことをすっかり忘れていて、順番に発表させられた時、自分の番になって困った。

 私は要領の良い子どもではなかったので、とっさに何でも考えて言えばいいものを、正直に「考えてくるのを忘れました」と言った。すると、場を仕切っていた先生は一言。



●おまえ、もういい。帰れ。

 クビ。出て行け——


 

 で、私はその会議の場である教室を追い出された。

 後日、その先生から私の担任に連絡があり、おたくのクラスの今の実行委員は不適格だから別の生徒に変えろと指示があり、言葉だけでなく本当にクビになった。

 小学生にその対応はちょっと厳しい、と思いますか?

 私も当時は、自分が悪かったことをつい棚に上げて、その先生をキライになった。

 でも、長い年月が経って、大人になってその件を思いだした時に、感謝が溢れてきた。あの時、厳しくしてくれてありがとう、という。



 あの事件があって後、私は責任ある係をやることになった時に、細心の注意と覚悟をもつようになった。用心深くなり、その姿勢をその後の中高時代に褒められた。

 皆の代表、という立場がいかに厳しく、責任あるものなのか身をもって知ったからだ。もしあの時「いいよいいよ」とゆるされていたら、センセー大好き! 話せるぅ! って思って胸をなでおろしただろうか。その時は助かった、ラッキーと思っても、その後の私の成長には何の役にも立たない経験で終わっただろうと思うのだ。

 そこまで考えた時に、「愛ってなんだろう」という深いテーマまで掘り下げられる。容赦なく責任を取らされたことで、辛かったけど学びになった。



 まれに、有名人の不祥事が発覚した時に、きちんと会見を開いて逃げなかったり素直に罪を認めたりした時、とりあえず罪の内容は置いておいてその「素直に認めた」姿勢を評価する意見が出る場合がある。そこはエラい、と。

 でも、立場とやってしまったこととの落差が大きいので、素直に認めたことを差し引いてもマイナスイメージは免れない。その人物の過去の実績にフォーカスし、大目に見ようとすることや素直に認めたことをもって情状酌量を図ろうとするのは人情からだろうが、それはその有名人のためにならない。

 一般人がケンカしたり間違いを犯したりしてかばってもらうのとはスケールの違う話である。大勢を巻きこんでのそれは、かばうには大事おおごとすぎる。

 何度も言うが、有名人はそこのリスクを背負う自覚があってなっているはず。

 じゃなかったらなるな、迷惑だから。

 


 本当に人のためになるのは、長い目で人を見ることである。

 見逃せないレベルの失敗をした時に、とりあえずかばうことは、短期的にはその人物の得にはなるが、成長の機会を奪う。だって、その人物は認識が甘いからそのような失敗を犯した。彼が二度とそれをしないためには「それをしたことがどれだけ怖いことか」を身をもって理解しないといけない。

 そのための早道は、ストレートに責任を取らせることである。弁解せず、下手に味方されず、世間一般の反応を甘んじて受ける、ということである。

 それを見守ることが、長い目でその人物のためになる。

 有名人としての立場を奪うことを残酷だと思わなくていい。別に、世の表舞台だけが幸せの道じゃないんだから。

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