明日死ぬと思って生きろ、の違和感

 スピリチュアルな発信において、「明日死ぬかもしれないと思って生きろ」という感じのメッセージがよく見受けられるようになった。

 私たちは、どうしても「明日生きている」こと、「10年後も生きている」であろうことを(かなりのお年寄りでもなければ)ほぼ100%と言っていいくらいに確実なように考えている。

 でも、我々はニュースを通して突然の災害や事故、病気や凶悪犯罪などのせいで命を落とす可能性が誰にでもあることを知っている。それでも、まだ人生が平穏無事な人は対岸の火事にしか考えることができない。どうしたってのほほんとしてしまう。



 いつ死んだっておかしくないんだから、「明日死ぬ」と思って生きろと言う。

 明日死ぬと仮定したら、やっておきたいことって沢山浮かんでくるでしょ?

 人間には未来のことは一切分からないし、あらゆる可能性があることを考えたら、まだ少なくとも生きている『今日』、悔いのないように「やれることはやっておこうよ」というメッセージになっている。

 それに、明日明後日5年後10年後がずっと「平和に続いている」という根拠のない確信に寄りかかって、「まだまだ時間があるから大丈夫という、悪い意味での安心感」があなたの一日一日をくだらないものにすることへの「戒め」もここにこもっている。



 でも、何だか違うんだよなぁ。

 何だか浅いんだよなぁ。人間いつどうなってもおかしくないんだから、もっと一日一日大切にしようよ、ってのは分かるんだけど……「急かせる・追い立てる」 ようなメッセージになってしまうと意味がないんだよなぁ。

 今を大切に生きる、ってのは 「感謝」 から生まれないとウソなんだ。

 明日死ぬかもしれないから、って頑張る 「今」 はちょっと人生の達人度で言えば低い。



『君の膵臓をたべたい』という、映画化アニメ化もした大ヒット小説がある。

 あれに関しては、作品に込められている「死生観」が、中高生向けのラノベ感覚の文章ながら「優れている」。

 余命宣告を受けたら、後悔のないよう思いきってド派手にやりたいことをやり尽すというのが良いという全体的な風潮の中で、この作品の主人公である「桜良さくら」は、いつ死んでもおかしくない状況でも普通に学校に通い、授業を受け、図書委員の仕事をする。

 もちろん、合間にスィーツバイキングを食べに行ったり、一泊の旅行に新幹線で出かけたりはしている。でもそれだって「残された時間を有効に使い尽くす」という意識的前提があってそうするというよりも「ただ、その時に本当にそうしたいからする」という自然な感じが漂う。



 映画やドラマなどで、自殺を考えている人や自分の余命を知っている人が、ノートに「死ぬまでにしたいこと」を書きこんで、順番につぶしていくという行動を取ることがある。

 一概には言えないが、命への理解が深い人のそれは「焦りを全く感じさせない」。ただ、水が流れるように自然で、無駄がない動きになる。もちろん、本人は無自覚である場合が多い。

 死に直面しているわけでなく他人ごとの一般人が言う「いつ死ぬか分からないんだから、生きているうちにやれることをやっておけ」は合理主義の臭いがする。「損得」といういやらしい言葉もどこかからこちらを覗いているような感じもする。



 まだ死なない、と思っている人は余命宣告を受けてしまった人と同じ境地は理解できない。ただ怖い、とだけ思えるのはそれだけ「身近に感じていない」証拠。

 死を見つめ出した人は、それが「日常」へと浸食してくる。完全に侵食したら、「死ぬからこれをやっとこう」とかいうことを特別に考えださない。

 もちろん、「両親にありがとうを言う。ケンカ別れしたままになっている友人に謝る」とかいうことを最後にしたいという場合もある。でもそれだって「魂が本当にやりたいこと」だから、突き動かされるからジャストタイミングとして起きるのであり、間違っても「どーせ死ぬんだし、見たこともないグランド・キャニオンでもいっちょ見ておこうぜぇ!」というノリにはならない。

 もちろん、人の個性によっては、地がそういうノリの方もいるだろうが。仮にそういうセリフが出てきても、ホンネで言えるのは1000人に一人くらいで、残りのほとんどは「強がり」「不安隠し」だろう。



『死』というのものが絡む、死を真正面から視野に入れた成熟した死生観は『静』。

 またの名を、「落ち着き」という。

 肉体年齢が若いほど、どちらかと言うと自分は「怖がっている」「落ち着いてなどない」と自我を見つめて評価するだろうが、言葉よりも「結果としての行動が落ち着いて観察される」ので見抜ける。

 そもそも、明日死ぬかもしれないから今をしっかり生きよう、なんて言葉が浅い。

 だって……



●無理!

 どんなに頑張って想像しても、明日死ぬなんて本気で思えないから。



 ウソをついちゃいけない。

 あなた方の中の誰も、そんなこと本気で思えないはずだ。

 まぁ、頭の理屈で「明日死ぬ可能性だってあるんだから、やりたいことを延ばし延ばしにしないで早くやろう」と計画することはできるかもしれない。

 でもそれは、本気が入っていない、、空疎な「やっておこう」である。

 コシのないフニャフニャなうどんのようなもの。背骨のない人間。

 死ぬわけがないというホンネの中に、頑張ってこさえた「可能性としては死ぬかもしれない」という申し訳程度の想像。それで、「死ぬまでにやりたいこと」の開始を早めても、大して感動もない。学びにもならない。いや、「それが大して意味なかった」ことを学べるだろう。



 明日死ぬかもと、死ぬまでにやりたいことをすぐやることに価値はない。

 本当にやりたい時にだけやりなさい。それが仮に「今」だったら、今しなさい。決していつか死ぬかもだからやっとこう、ではなく。

 仮に、あなたがすぐ「したい」と思わず、急に死んで結果できないことがあったならそれは、あなたが大してしたかったことではない、ということ。

 別に、あなたの人生に無くったってどうでもいいようなことだった、ということ。

(もちろん、他人がどう思うかは別で、あなたにとってという意味で)



 明日死ぬと思え、なんておままごとである。

 やれるもんならやってみろ、健康で余命宣告など受けていない諸君。

 人間、やっぱり純粋に「その時にやりたいこと」しか望めない。

 死ぬかもと仮定して、あれやこれや思考戦略的に人生を充実させようと図っても、ムダ。空回りするよ~きっと。そんな、無駄な抵抗はおやめなさい。

 明日死ぬかもと行動することは、今を生きようとしないことである。自分の終わりを仮想決定して、背水の陣を引いてまで生きることを充実させるのはおかしい。

「俺はやったど~!」と胸を張ってこれをしたと言えることで人生を飾り立て、自己満足をすることはできる。他人もそれを見て、あなたの評価を上げるかもしれない。「あの人スゴイ。聞いたらさ、明日死ぬかもしれない、って気合でできること何でも頑張っているんだってさ~」

 


 でも、そんな自分が「ぜんぜんすごくなんかない」ことを、他人は誤魔化せてもあなた自身のある部分が誰よりも理解している。

 人はいつか死ぬ。それは数十年後か、もしかしたら明日かも知れない——。

 理屈はその通りだが、そんなこと考え過ぎないでよろしい。明日死ぬと思えなければ、ぜんぜんそれで構わない。筆者には、それでも「明日死ぬかも」なんて無理に想定するなど、とてもオススメできない。

 そんな意識で急いで何かしても、自然な流れでやる場合に比べて楽しくないから!

 自分を追い立ててまで、恐れを使ってまで今の実績を挙げようとする罠から目覚められよ。



「明日死ぬと思って生きよ」はやっぱりキライだ。

 きっと、私は明日生きているだろうから。

 最後に、先ほど紹介した『君の膵臓をたべたい』という作品の主人公・桜良の言葉を紹介して終わろう。余命宣告を受けているのに対して特別なこともしない彼女が、 「残り少ない命を、そんな風に過ごしていていいの? もっと特別なことはしないの?」と聞かれた時の返答だ。



●んー、言いたいことは分かんなくもないけどさ。

 たとえば君にも、死ぬまでにやりたいことというのはあるでしょ?

 でも君、今それをやってないじゃん。

 私も君も、もしかしたら明日死ぬかもしれないのにさ。

 そういう意味ではね、余命宣告されている私も、されてない君も変わんないよ、きっと。

 一日の価値は全部一緒なんだから、何をしたかの差なんかで私の今日の価値は変わらない。

 それに私は今日、楽しかったよ。

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