流行に踊らされるスピリチュアル?

 ネットサーフィンをしていたら、とあるブログでのスピリチュアル業界に対する次のような指摘を目にした。



●昔は、「非二元」なんて言葉、出もしなかった。

 でも、ここ最近になってやたら非二元、非二元。

 スピリチュアルも結局、「流行」(に踊らされている)なんですかね。



 まぁ、指摘としては分からなくもない。

 でも、そのような感想を最終的にもってしまう前に、もっとできることはあるだろうに。その内なる冒険こそが、生きてて楽しいところなのに。それこそ知的生命の特権なんだけどな。

 では、この方に代わって筆者が、「スピリチュアルは本当に流行に左右される産物に成り下がったのか?」について思索を展開してみる。私は普段、さほどスピリチュアルの味方ではないが(笑)、今日はちと弁護してみよう。



 以降の話の理解の助けとして、マニアックと言われるかもしれないが「新世紀エヴァンゲリオン」からの引用。

 TV版第八話『アスカ、来日』で、エヴァ初の水上戦闘が描かれた。第6使徒ガギエルとエヴァ二号機の戦闘の模様が、海軍の中で実況中継されていた。

「エヴァ、敵体内に侵入!」

 その場にいた碇シンジ君の友人、トウジがそれを聞いて一言。



●『それって、食われとるんとちゃうんか?』



 どちらも、同じ状況を描写した言葉である。

 エヴァが敵体内に侵入する。敵にエヴァが食われる。

 作戦のため、意味があってあえて敵の体内に侵入した、とエヴァ側に好意的に考えるのか。それとも、エヴァ側は劣勢で、負けているから向こうに食われていると見るのか? 解釈次第で、なるほどどちらとも言える。

 そこは、今回の話 「スピリチュアルも結局流行に左右されるものなのか」も問題のツボは同じ。結局、どの視点に立つことをあなたが選択するか、の問題である。



 筆者は、若い頃「時代劇」が大嫌いだった。

 この現代に、わざわざ太秦映画村みたいなセット内で着物着て、なんであんな古臭いドラマを作るんだ? そんなの見てどこが楽しいんだ? と思っていたのだ。

 しかしある日、その私の「当たり前の視点」が壊される日が来る。

 たまたま、ヒマすぎる時間に何気なくつけっぱなしのテレビから流れてしまった『必殺仕事人』。

 ルパン(必殺シリーズ)は、とんでもないものを奪って行きました。筆者の心です!(by 銭形警部)

 面白い! 時代劇って、こ~んなにも面白いものだったのか! その日から、私は筋金入りの必殺ファンになった。

 鉛筆やシャーペンを持つと、飾り職人の秀さんを意識して、いちいち「チュイ~ン!」と指先で回して、口にくわえたり。長いひも状のものを持てば、いちいち組紐屋の竜さんを意識して投げたり……(汗) 今思えば影響されやすい、大迷惑なやつだったと思う。

 その後、必殺の公式ファンクラブにも加入した。



 私に限らず、人は誰しもどの瞬間も自分に「良かれ」と思って生きているはずである。その瞬間に取り得る最高の選択を、あなたなりのできる範囲のベストを生きていることは間違いない。

 私がある時点まで時代劇が嫌いだったのは、その時まで私が「その価値をちゃんと分かっていない、欠けのある状態」だからではない。その時代だって、私は認識の世界で全力で生きていた。

 ただ、ある瞬間を切り取った中に、それ(仕事人との出会い)が登場したのだ。だから、この問題に関しても、ふたつの「見方」ができる。



①時間を直線と考え、その流れ全体を俯瞰して考えると?



 ある時期まで、私は時代劇の価値を理解せず生きてきた。バカだった。

 しかしある時点で、私は時代劇の面白さを理解した。

 それ以後、私は変わった。成長した。それまでの自分は、卒業した。

 この視点の特徴は、時間軸にそって「優劣」が付けられる点である。

 たとえばスピリチュアルでよく聞くのが、昔ずっと悩んで、何が正しいのか分からずに生きてきました。でも、このスピリチュアルと出会って、私は変わりました! もう、あの頃の自分なんて考えられないくらい。ホント、これに出会っていない頃の私はバカでした……みたいな捉え方。

 この「ビフォアーアフター」的な視点は、私は好きではない。

 人生のある時点とある時点を抜きだして、横並びにして価値を比べる行為は、さほど良いものを生まない。私が、「悟る前と後でどう変わりました?」という質問がキライなのは、そこである。



②時間の流れを一本の線として、人生を時系列で考えて、ある点同士で優劣を比較するのをやめてみたら? 直線を消し、ただそのバラバラな瞬間ひとつひとつに「比べられない価値がある」と捉えたら?



 ビフォーの時点だって、立派な人生であり、ドラマである。

 そこだって、あなたはあなたなりに、知っているすべてを用いてベストを生きようとしていたはず。その価値を忘れさせてしまうのが、直線軸視点思考である。

 あなたは「感謝」をするだろうが、的外れな感謝になる。

「あんな暗黒の日々から、ダメダメな私を救い上げてくれ、変えてくれたスピリチュアルに、ありがとう! 先生に感謝!」と言うのは、本当の感謝ではない。ピントがずれておる。

 本当の感謝とは、「すべて」に捧げるものである。その、辛い日々(変化する以前)があったればこそ、その変化があったのだ。

 そこへのリスペクトが抜けていたら、遠い父母から物品の仕送りが届いた時、父母への感謝そっちのけで実際に荷物を届けてくれた「宅急便の配達員」にばかり感謝するようなもの。



 さて、話のまとめとして、スピリチュアルは結局流行か、について今の視点を当てはめよう。

 


①スピリチュアルも結局流行に踊らされているという考えは、時間を直線として一連の流れとして捉えている。あの時はああ言わなかったのに今になって……というのは、時間全体を俯瞰して総合的に考えている。

 しかし、人間はは過去において、今現在その人がが持つ視点と情報を持ちえなかった、ということには謙虚になるべし。

 今の視点からその今をまだ見ていない過去を責めるのは、酷すぎるということ。



②ただその瞬間はそうであった。その瞬間はそれがベストだった。その「ベスト」が連続して見えるために時間の流れ、歴史という幻想映画があるように見せてくれている。

 だから、非二元ということがあまり言われなかった昔も、スピリチュアル界はその時のベストな営みをしていた。そして今はただ、そういうことをベストとして、動いているだけ。(もちろんスピルチュアル界全部が、という話ではない)



 その瞬間だけの価値を切り取るなら、あなたに混乱は生じない。ただ、流れを俯瞰し、ある二点間の差異に注目し、その優劣や矛盾にフォーカスしだすと、あなたの在り方はパワーダウンする。

 あなたに生きる力が湧かない時、二点間の価値の違い・優劣をわざわざ暴きだして、勝手に悩んでいるというのが実態である。



 食われていると見るか、あえて体内に飛び込んでいる、と見るか——

 どちらと見るかは自由だが、後悔のない選択のためにも、判断材料としての情報は集めたほうがいい。

 この世界で一番我慢がならないのは、大して情報を集める汗もかかずに、ちょっとの情報をかじっていかにも「分かった風なこと」を言うやつらである。

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