思いやりって何だろう

 かつて『SMAP解散』というニュースが世間を騒がせたことがあった。

 そのことで、感想はいろいろだが多くの人が自分の思いをSNS上で発信し、議論が巻き起こっていた。そのタイミングで、ある中学3年がこういうすごい意見を言っていた! というのが、どこぞの誰かのツイッターのシェアで載っていた。

 


●四十過ぎたおっさんのアイドルというだけでも笑えるのに、それが解散するとか、どうでもいいようなことをニュースでやってました。日本はもうダメですね。このグループが日本の財産とか言ってますが、財産って何ですかね? 自然や子どもたちじゃないんですか?



 中学3年なのに、なかなか的を射たことを言う! と、賞賛されていた。

 次に紹介するのは同じ中学生の発言ではないが、やはりSMAP解散を受けてのツィート。



●SMAPの解散を止めたくて、ファンを中心に「世界にひとつだけの花」の累計売上枚数を上げる運動を展開していて、現在ネット通販では売り切れ続出だという。同じくらい、この夏の参院選にも真剣になってくれたら、間違いなく世の中変わるのに。



 どちらも、辛辣だがまぁ確かに、という内容である。

 筆者も、どちらかというと当時こういう意見に近い感想をもった。(日本が終わってるとまでは思わないが!)

 ただ、お話がここで終わってしまってはもったいない、と思うんだな。それでは、人類はちょっとも進歩しない。歴史的に繰り返してきた間違いをまた繰り返すだけ。



 優れた考え方を自分はしている、と自覚する者が持つべきなものは『思いやり』である。違う価値観で考えている者に対して、「バカだなぁ~」では、実は両者同レベルである。

 相手は相手なりに一生懸命生きてその結果なのであり、その価値観で生きざるを得ない。その価値観で真剣に生きてる世界もまた、尊重されるべきひとつの人生の在り方なのだ。分かってないなぁ、ではなくその相手の世界にも(大勢を巻きこみ不幸にするようなことじゃないなら)少なからず敬意を払ってあげる。

 皆さんの大好きな「平和」とやらは、そこから生まれるんじゃないのか?



「正しい者」「優れた意見を持つ者」は、それだけで褒められる存在ではない。

 そこに「異なる意見の者も尊重できる」という追加条件もクリアしないと、素晴しいとは言えない。いや、そこがなくて正しい人、進んだ意見だけを持っている人はかえって迷惑になる場合がある。

 今紹介したSMAP解散に関する意見は、なるほどそうだとも思う。筆者も特に異存はない。ただ、私がこの意見に同調できるのは、個人的にSMAPに特別な関心や思い入れがないからである。おそらく、この意見にそうだそうだと言えるのは、ほとんどがSMAPにまつわる特別な思い入れも感謝もない人たちだけである。



 辛い時、苦しい時。SMAPに癒された。勇気を、元気をもらった——。

 中には、ただのアイドルという領域を超えて感謝し、尊敬している人もいるかもしれない。この中学生や筆者などには「ただのおっさんアイドル」かもしれないが、特別な思い出を持つ者にとってはかけがえのない、代えがたい存在にまでなっている場合がある。そういう人にとって、SMAP解散を頑張って阻止したいのは、当然であるし自然である。

 どうも、自分は正しいことを言っている、という優越感に酔いしれて、そういう視点を欠く「うざい正論主張者」が横行しているようにも見える。

 だから、私はSMAP好きなどではないが、真剣に「解散してほしくない」と頑張っている人は、そっと頑張らせてあげたいと思うのだ。その情熱を参院選に使え、などというのは無粋な指摘である。

 SMAPが大事な人生シナリオの人には、悪気なく「参院選より重要事項」なのだ。あなたは日本の大事に何を、と思うかもしれないが、まぁ認めてあげたら?



 逆にそういうことを、あなたが言われたらどうだろうか?

 たとえば親から、あなたが趣味で熱心にやっていることに対して「その情熱を勉強に注いでもらえたらねぇ~」と言われたら、あなたは反発しないだろうか? 

 確かに正論ではある。でも、なんか、なんか……納得できないよ! っていういらだちにも似た気持ちが湧き起ってくるのではないか?

 それとこれは話が別なんだ。やっぱり人間、好きなことしかできないのだ。

 結局、正しい意見を持つ者の中に、一定数 「好きなことをやる情熱で勉強しろ」と言ってくるオカンのように、相手の気持ちを汲まない無粋なやつらがいることが問題なのである。

 ケンカ・発展して戦争とはそうやって起きることもあるのに。

 正しい意見の者が、起きなくていい余計な争いを生むことがある。口達者なオピニオン・リーダーがムダに人を傷付けることがある。



 ある時、フェイスブックで似たケースを観察した。

 ある男性の投稿だが、奥さんではないと思われる女性と一緒にお風呂に入っている写真を投稿していた。いわゆる、「裸のお付き合い」というやつである。

 お湯の加減でまる見えではないギリギリセーフラインだが、タオルで覆っているわけでもなく、実にきわどいラインの画像だった。子連れ同士で混浴している、まぁ微笑ましい画像といえばそうなんだが、やっぱり沢山の人が見るものなので、色んな受け取り方が生じる。

 中にはその投稿を見て「不快」と感じる人も少なからずいたようで、その中の誰かがフェイスブックの運営に報告を上げたらしい。それで審査、ということになったようだが、結果投稿者に軍配が上がった、勝ち負けじゃないが、とにかく画像は「問題なし」として削除はされなかったようだ。

 それを受けて投稿者の男性は調子づいて、自分の勝利みたいなことを匂わす発言をし、「この写真で引っかかるなんて、その感性が可哀想」みたいな言葉を問題の写真に添えて投稿。

 で、そこにつく賛同コメントも……

「え~何も問ないじゃん。どこが引っかかるのかね?」

「きっと、心理的壁(ブロック?)みたいなものがあるんだね」

「その人の乗り越えるべき課題が浮き彫りになっただけ」

「こういう画像を見てパブロフの犬みたく反射的に『はしたない』というのは、もはや洗脳。まさに、前時代的な発想の呪縛」

 そんな感じの「そーだそーだ」意見で盛り上がっていた。



 今の話も、SMAPの話題と同じパターンである。

 筆者も、どちらかというと「別にいいじゃん」と思う方である。そこまでイヤな感情は湧かない。

 しかし、私が違和感を感じたのは、その「正しい・どちらかといえば優れた意見を持つ者が、同じように見れない者を見下すような物言い」である。おそらく投稿者本人は無自覚であろうが、自分のことが客観的に見れないタイプの人のようだ。

 画像が問題なしとなったことで、「そら見ろ」的に態度がでかくなった。で、さらにそれを増長させるような賛同コメントも集まる。

 私は、こういう人たちを「意見の正しい愚か者」と呼ぶ。



 なぜ、その手の画像を見て不快に思う人がいるかもしれないということを、思いやれない? そういう人はそういう人で、別にいいではないか。

 ちょっとでも見た人の評価が割れやすい画像や意見は、特にフェイスブックなどの媒体では載せないほうがいいと思う。そういうのは個人のブログとか、どうしてもSNSでやりたいなら鍵付きアカウント(お友達しか見れない)を使うとか、もっと閉鎖的なところで公開してほしい。

 それでも全員公開設定にするなら、覚悟をもつことだ。色々な受け取り方をする人がいる、という。そして、できるだけ反対意見があっても沈黙して、バチバチやり合わないことだ。

 仮に通報されて削除されたなら、静かに受け入れる。逆に問題なしとしても、静かにしておく。余計なことを言わない。

 そら見たか、みたいなことや「ヘンだと思うその感性の方が問題」という指摘など余計なお世話である。投稿者は世の偏見やそれも基づく認識に一石を投じたかったのかもしれないが、余計なことである。

 それをやっていい場合と控えたほうがいい場合とがあるが、残念ながらこのケースは後者である。公開は賢くない選択であった。



 確かに、SMAP解散にあれほどの情熱を注げるなら、今の日本を何とかしろというのはぐぅの音も出ないほどの正論である。ちょっと親しい異性同士が混浴している写真をネットで公開しても、別にヘンではないというのももちろんそうだ。やっぱり、これまでの社会的常識・親や教師などの大人たちから吹き込まれてきた「洗脳」である、というのも大きく間違ってはいない。

 性のタブーというものは、往々にして「恥ずかしいもの」という偏見がある。でも、最後に大事なのは、正しいということを誇るより 「思いやり」である。

 正しい側・進んだ側からすると、相手の幼さや進んでいなさ加減がもどかしくてしょうがない。「この、わかんちんめが!」と思ってしまうその気持ちは分かるが、まぁ待て。

 それに絡め取られてしまったら、正しい側の負けである。せっかくの意見の正しさも、相手と共倒れになって価値が消失する。そうなったら、正論などただの武器でしかない。

 


 思いやり、とは何か。

 それは、上の立場の者が下(まだその域に達していない者)の事情を察し、その目線に合わせた対応をしてあげることである。その段階なのだから、仕方がないと見守ってあげること。

 下の者は、その段階にふさわしい全行程を味わって初めて、そこを卒業することができる。一足飛びに、あなたのいる場所まで来ることはできないのだ。

 そこを察して、静かに見守り、応援してあげることである。その間、余計なことは突っ込まない。でも、自分のこうと思うことは主張したらいい。

 ただし、下の者をからかうような「弱い者いじめ」的な手法は取らないこと。



 だから、私にはSMAPを必死に助けようと運動する人もそれを冷ややかに見る人も、どっちもどっちなのだ。いい歳の男女が裸のお付き合いでお風呂に入っている画像を、汚らわしいと通報する人も、それを「何もおかしくない。おかしいと思うその感性のほうが残念」と言い放つほうも、どっちもどっちだと思うのである。

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