新規勧誘を頑張る宗教信者への手紙

 今回の話は、大勢多数には直接当てはまらない話かもしれない。でも、この文章を読んで何かが変わる方がいるかもしれないので、綴ることにする。



 筆者は、その昔新興宗教にはまり、その後間違いに気付いて既成の伝統宗教に移った。社会的に問題のある宗教から、世界的に認められていてそれほど「怪しい感じ」はない既成キリスト教に移るという変化はあったが、「宗教」という枠の中に居続けた点では同じである。

 新興宗教にいる時も、既成キリスト教にいる時も、同じひとつの苦しい戦いがあった。それは、「伝道」である。



 正直な胸の内をぶちまけると、既成キリスト教会時代、神学校で学び将来指導者と目されて期待される立場では口が裂けても言えなかったことだが、『伝道がキライ』 だった。

 新興宗教時代は、ノルマがあった。その組織内の価値基準で「世界を救う」ことに真剣過ぎたので、あまりにも実績がでないと食事抜きで伝道したり、自由時間や学生としての勉強時間を全部潰してまで駆けずりまわることになった。

 今にして思えばおかしいのだが、当時はその価値観というか救済思想にハマってしまっていたので、疑問視できなかった。



 伝道に行きたくない。

 当時、そんな気持ちになるのは悪魔の働きかけだと考えた。そしてもちろん悪魔のせいばかりでもなく、自分の中につけこまれる弱さがあるせいだと。

 結局、自分の心が弱いからなんだ。

 筆者が恐れていたのは、自分が傷付くこと。人からどう思われるか。いきなり声をかけられてきっと嫌がられるだろう。迷惑がられるだろう。私のささやかなプライドでも、それは耐え難い——。

 きっと、そんなことを恐れているから、自己保身のために「行きたくない」なんて気持ちになるんだ。私は伝道時間になると気分が沈み胃が痛くなる理由を、そのように整理していた。



 真理を知った私たちが伝えないで、誰が伝えるんだ?

 皆、誤解している。悪魔の策略にはまり、真理を「社会悪」として敵視している。

 それを何とかするのが、光の勇士ではないか!

 人からどう思われるかとか、迷惑がられないかとか、小さい小さい。学校の宿題ができない? 読みたかった本が読めず、見たかった映画が見れない?

 世界が滅んだらどうするんだ!

 そうなったらそんな欲求を充足させても、最後は何にもならないじゃないか!

 宿題ができなくても、世界が救われるほうがいい。一人でも、光に導かれればそのほうがいい。

 大学の成績より大事なのは、人ひとりの霊的な命。それが救えるのなら、何でも差し出そう。自分のことはいい。

 実際にイエス様は、自らを十字架に捧げ、人類を救おうとされた。私も弟子として、同じ道を行く。神にこの身を捧げる。

 自身のエゴで、「しんどい思いをしたくない。恥をかきたくない」なんて、愚かだ。それは、キリストの弟子の考えることではない——。



 ……ってなことをつらつら考えるわけだ。

 今日の記事は、何かの宗教に所属していて、少なからず組織の維持のために「人を増やす」必要に直面し、頑張っている最中かもしれない人なら分かる話になっている。その中から、一人でもその重荷を下ろせる人が出たら、という期待を込めて書く。「もういいんだよ」と言ってあげたい。

 宗教にはまって使命感に燃えている人には、ある当たり前のことが分からない。

 普通の人には解説さえ要らないそのことに、目を向けられない。それは……



●他人など、頼まれもしないのに干渉しなくていい。

 むしろ、あなたの価値観をいきなり声をかけて紹介するなど、迷惑だ。

 一切、しなくてよろしい。

(ただし義務感・使命感が動機である場合。心からしたくてしている、と胸張って言える方は自己責任で)

 世界は、宇宙は、あなたがイヤなことをしないという権利を行使した程度で、悲惨な運命をたどったりしない。この実際の宇宙は、宗教が言ってるのとはかなり違う原理で運営されているから。



 したくないことをしなくていいなんて、当たり前やん!

 それを、「伝道に行かないことは、他人が救わるかもしれない機会を、あなたが潰すことになるということ。逆に前進するなら、あなたは多くの人の価値ある救いを生むかもしれない」なんて理屈にのせられて、足を引きずりながら早く時間が終わることをどこかで願いながら、駅前や大学構内に行くなんて……

 これを、「生き地獄」と言わずして何と言おうか!

 でも当時は、そう思わなかった。いや、そう思えないようにされていた。

 お国のために、と戦争へ行った太平洋戦争時の日本の兵隊のように、私もまさにそのような心境で勧誘活動を頑張っていた。



 新興宗教から目が覚めてのちも、既成キリスト教に入ってやはり同じことで悩んだ。こちらはもちろん、新興宗教時よりはソフトで(笑)、ゆるやかだった。

 実際、教会員の誰も伝道なんか頑張ってなかった。伝道地獄のような新興宗教時と比べたら、南の島にバカンスに来たかのような自由さ。

 でも、こちらではこちらなりの葛藤があった。それは……



●信者が増えないと、食っていけない。



 前回いたところのように、ノルマや時間拘束などの「強制」は確かにない。

 でも、だからといってそれに甘えてのほほんとしていたら、教会が潰れる。一般信者は教会に通って礼拝するだけだから、信者が増えようが増えまいが自分の生活に影響ない。ただ、教会の運営側に回るなら話が変わってくる。

 建物の維持費。家賃。で聖職者や職員の給料。日本社会の高齢化もあり、現役で働いている方の数も献金も年々減っている。

 だからといって、ここは体育会系のような新興宗教とはわけが違うので、信者たちに「人を連れてきなさい! 伝道せよ!」とはとてもではないが言えない。

 結局、指導者自らが先陣切って手本を見せなきゃいけない。



 筆者はこのままではいけないと思い、一念発起して最寄りの駅前での伝道活動を開始した。基本毎日、である。

 確か半年は続けただろうか……

 毎日毎日、針のむしろだった。行くと決めている時間が近付くと、新興宗教時代のように胃が痛むようなこともあった。

 そんな自分を「よっしゃあ」と奮い立たせて、足を運んだ。私の頭には常に、キリストの十字架による「究極の自己犠牲」という手本があった……

 バカにされることも、会社員風のおじさんから「迷惑だからやめろ」と怒られたこともあった。でも、神のために歯を食いしばって耐えた。



 で、今は賢者テラという名前で、宗教とは違うが精神世界(スピリチュアル)という分野で、アウトローっぽいけど一応は属して活動している。

 今、私がしているのは動画配信と、このカクヨムでの記事投稿である。もちろんお声がかかれば人前でも話すが、積極的に私を知らない人にこちらから売りこむような宣伝というか、昔で言う「伝道」のようなものはしない。

 しないというより、もうしたくない。ずっと宗教に関わってきて、今にしてやっと呪縛から解放された。

 


 宗教は、勧誘を一切しなくていい。

 街頭で声をかけるなど迷惑である。

 ましてや、人の家を訪ねたり、もっとひどいのは宗教であることを隠してアンケートとか、サークル活動やイベントの勧誘とかするのは狂気の極みだ。

 でも、当事者たちは恐らくそんなことに気付ける思考力も奪われているので、一般感覚からは異常なことや、犯罪まがいなことも実行できてしまうのだ。私自身が体験したから、分かる。

 勧誘活動がイヤ、でも、それはきっと「自分を守りたい、傷付きたくない」という自分のエゴで、世界平和と真理の普及のためには、わがまま言わないで頑張らないと! そんなことを思う、真面目なあなたへ。

 いいんだよ。もうやらなくて。明日から、出かけなくていいよ。

 その時間を、もっと心躍ることに、安らげることに使いなさい。大丈夫。神様は別に困らないし、そんなことで世界が滅びたり他人が不幸になったりしない。それは全部、あなたやその宗教とは関係ないところで起きていること。

 大丈夫。あなたが勧誘しないことで、何も宇宙に不都合は起きない。



 それでも、あなたが宗教組織の指導者であったり、信者の数がもろにあなたの懐具合に影響するという立場の人へ。人を増やさないと組織が立ち行かない、というのも分かります。だったら、厳しいことを言うようですが——



●副業をしなさい。

 何でもいいから働いて、足りない分は補いなさい。

 人を連れてきて、信者化してお金にしよう、という発想をやめなさい。

 何が何でも、その宗教で稼げるのでないとダメというこだわりを捨てなさい。



 そうすれば、違う価値観をもつ他人を説得することの苦しさから解放されます。

 そうしている時の自分も巻きこまれている他人も、きっと幸せではないはず。

 その苦痛を貯金のように考えて、これをあきらめず続けていたらいつかは花開くのでは……という発想は最高に怖い洗脳であり、狂気の発想である。この思考が生きているから、宗教はどこまでもエスカレートできるのである。

 光と闇、神と悪魔という世界観の構図からは「闇が光を攻撃する」、つまり本当に正しいものほど攻撃を受けたり誤解されたりしやすいものだ。だから無明(正しいことが分からない状態)にいる人物たちの誤解や攻撃に負けるな、という発想に導かれてしまいやすい。

 他者からの非難や苦情さえ、勲章のように考えてしまえる、悪魔の発想。ここの思想の縛りから抜け出すのは、そう簡単ではない。



 西欧におけるキリスト教のように、生まれた時から周囲が「当たり前」のような環境でそれを扱っている世界なら、一番問題が少ない。

 それを越えた範囲で人に薦めたり信者化しようとする動きは、一歩間違うと怖い。特に日本という国の宗教事情においては、よっぽどのことがない限り「伝道」には手を染めないほうがいい。

 筆者の動画配信やここで発信しているような話は、見たくなければ見ないようにできる。自分で簡単にシャットアウトすることができる。ここに強制力はない。

 ただし、本当に生身の人間に声をかけてアプローチしたら、そこに何らかの「関わり」が生じ、エネルギー交換が多少なりとも成立する。あなたは、声をかけた一人ひとりに関してその責任を問われることになる。それを背負って生きることになる。



 ホンネで、心からイヤだと思うことに対して、いくらそれが必要だというもっともらしい理屈を千も万も並べられても動じるな。あなたには、それをやらなくていいという選択肢がゆるされている。

 そんなことをあなたにさせる神は、本当に愛か? 他人を助けるために我が子を辛い目に遭わせる。それも、バランスのとれた愛の神のすること?

 何者も、あなたが辛いと感じる行為を無理強いさせたりはしない。それを頑張って貯金したら、いっぱいになった時に願いが叶う、なんてないから。

 


 全国津々浦々の宗教信者よ。

 ちょっとでもいやなら、伝道はしなくていいよ。いや、と思うその神経は正常だよ。おかしいのはむしろ、罵倒されたら「ありがとうございます」って変換する機能を植え付けられた教勢拡大マシーンと化した信者の前線兵たち。

 それで食えない分は、普通に働いたらいい。それでも喜んで信心していたら、そんなあなたを見て向こうから興味を持って来てくれることがある。

 それだけを受け入れていたらいいよ。危機感を持って、必死さを滲ませて勧誘行為をしていたら、それは悪魔も笑ういい見世物だよ。

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