人間やってて辛い時

 何かのテレビドラマで、次のようなシーンがあった。

 10人兄弟くらいの大家族の、一番上のお姉ちゃんのお話。

 しっかり者なので、両親からは兄弟たちの面倒を見ることを期待されている。実際にやさしいし面倒見がいいので、兄弟たちも慕っている。

 慕っている、というのは物事の良い見方であって、別の言い方では下の弟たちや妹たちは、何かあったら簡単に「お姉ちゃん」と呼んで頼りにする。

 そんなに色々言われていたら、お姉ちゃんだってスーパーマンではない。時として、失敗をすることもある。

 料理とお菓子作りが得意なお姉ちゃんは、下の妹がクラスメイトに「うちのお姉ちゃんはお菓子作りが得意なんだ」と言いふらしてしまい、クラスメイトがそれを食べに来ることになってしまったと事後報告を受ける。こうなってはもう、やってあげるしか選択肢がない。

 当日、お姉ちゃんは実に10人分もの菓子作りを頑張るが、日頃の他の兄弟たちの世話の疲労も重なり、材料の計量を間違えてしまう。製菓の世界では、料理以上にたった数グラムの計量の狂いが大きく味や風味を左右してしまうからだ。

 結果、お姉ちゃんは妹のクラスメイトたちに「言うほど大したことはない」という評価の烙印を押されてしまった。恥をかいた妹は、姉の失敗を責める。しかし、妹以上に泣きたいのはお姉ちゃんのほうである。

 数日後、姉は親戚の叔母の家を訪ねる。 

 ……私、『お姉ちゃん』をやめたい。

 期待を寄せる親には直接言いにくいこのホンネを、親戚のちょっと話せるおばさんに告白したのだ。



 筆者も長女がまだ幼いころ読んであげた絵本にも、8匹くらいの子ブタの兄弟たちの似たようなお話がある。

 散歩をしていて、下の兄弟たちがだっこして、とか手をつないで、おぶってとか頼ってくるのを長男ブタがこなしているうちに、最後にはそのお兄ちゃんが疲れてしまい泣き出してしまう。

 お兄ちゃんが泣くのを見た下の兄弟たちは、自分たちがどんなにお兄ちゃんに負担をかけていたかに気付かされ、下の兄弟たちみんなの力でお兄ちゃんを支えて、家まで帰り着く。



 ところで、お姉ちゃんをやめたい、とかお兄ちゃんをやめたい、とかいう気持ちになるのはどんな時?

 


●こちらの事情などおかまいなしに、その役割をもつ者に対して期待されてもよいとされる仕事を、キャパシティ以上に配慮なく任される場合。

 そして、その過剰であるという計測結果に、周囲の誰も気付けていないで放置されている場合。



 ではちょっと話を大きく考えて、「人間やめたい」って思うのはどういう時?



●世の中の常識的・平均的価値観である「人間とはかくあるべき」「こういう人間は良い人間です、こういうのは悪い人間です」などの基準を、必要以上に押しつけられる時。

 容易にクリアできているうちはいいが、置かれた環境や成り行きによっては、どうしてもその基準を満たしにくい場合がある。それを、立場を思いやらず、全部その人物の責任であるとして責める場合。責めないまでも、「どうしてあなたにはできないのか」と暗に問うような雰囲気が醸成され、当事者が苦しめられる場合。



 これまで人間は、「よりよく生きる」「幸せになる」ために、宗教や倫理道徳・スピリチュアル的なものを発展させ、追い求めてきた。それは、先のたとえで言うと「お姉ちゃんとは何か、お姉ちゃんとはどうあるべきか。どういうのがお姉ちゃんの理想像か」という話に相当する。

 そういう、人間が志向することがよいとされるものをハッキリさせたり、そうすることを奨励し、世界に啓蒙していくのは良いことだ。しかし、そこには個別の配慮というものも要る。

 杓子定規に人間かくあるべし、を過剰にはめられたら生きる意欲が減退する。せっかく人間の幸せのために存在するはずの宗教やスピリチュアル・世の良識といったものが、場合によっては人を追い詰める凶器にもなりかねない、ということである。



 物事には順番がある。

 お姉ちゃんの物語でも、過剰に期待をかけこなすことを要求する前に「思いやり」が必要であった。周囲にそれがあったなら、お姉ちゃんが「お姉ちゃん辞めたい」という言葉を口にするほど追い詰められることはなかったはずだ。

 人間、誰かがちょっとでも「自分のことを思いやってくれている」と思えたら、かなりのことはやっていける。そこがないから、精神がある臨界点に来たら、簡単に壊れる。

 気を付けないと、スピリチュアルというのは人を幸せに導きもするが、あなたが無神経でいたら人を傷付けることもある。なぜなら、スピリチュアルが言っている内容というのは、こうするのがよいああするのがよいという「行動基準、意識状態基準の理想のオンパレード」だから。

 個人によっては、それが「過剰な期待」と感じられるかもしれない。

 個人的にものすごい大変な不幸があった時に、たまたまTV番組で「どうにもならないことでクヨクヨするより、今すぐハッピーになろうよ! ワクワクドキドキしようよ」というメッセージを耳にするようなものである。

 正論だし、テレビ局でしゃべっているそのタレントは、まさかそれどころではない大変な事情を抱えた人が耳にしているなんてことは全く想像できていない。それは仕方がない。



 指導者は、不特定多数に発信せざるを得ない、一種辛い宿命がある。

 読者を選り好みできない。良かれと思って書いたことでも、ある精神状態の人にとっては聞きたくない言葉だったかもしれない。イヤな気分にさせる言葉だったかもしれない。それは、気を付けてもどうしようもない世界もある。

 でも、どうしようもないから気にしない、というのもまた違う。この事実に「多少なりとも意識的である」ことで、何かが変わってくる世界がある。

 だから筆者などは、「聞いた人皆に喜ばれるのは百パームリだろうな」とは頭では考えつつも、それでも日々の記事に「少しでも誰かの助けになるようなものでありますように」とも願っている。

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