聖なる嘘

『Nのために』という連続テレビドラマがある。ジャンルとしては謎解きサスペンスであり、『告白』というえげつないデビュー作でブレイクした、湊かなえという作家の原作である。彼女が得意とするのは「犯人や動機・手口が意外性に富んだ殺人もの」であり、今回紹介するのもやはり殺人事件ものなのではあるが。そこに「恋愛要素」と「人生とは何か、生きるとは何かという哲学的命題も含んだ本質的問いかけ」も含む、たいへん味わいのある内容になっている。

 ちなみにNのためにの『N』は、名前のイニシャルである。

 じゃあ名前にNのイニシャルがつく登場人物が怪しいじゃないか、探してもそこはこの意地悪な作家がゆるさない。この作品の主要な登場人物にはほとんど、Nで始まる名前(名字か下の名前か)がついているため、名前から犯人を割り出せないようにしている。



 登場人物それぞれに、「大事なN」がいた。それぞれが、ただその「N」を守りたかったのだが、その結果殺人が起きてしまう。

 いったいなぜ、そんなことになったのか?を追いかけていくドラマである。

 話が進むごとに、事件のシーンが少しずつ明かされていく、といううまい演出をしていて、謎解き意欲を非常に掻き立てられる。私個人の感想としては、結末はそれほど意外ではなかったが、それでもこれは色々と考えさせてくれる骨太なドラマだったと評価できる。

 皆さんも、おきらいでなければ是非見てほしい。



 この作品では、登場人物たちが色々と「ウソ」をつく。

 普通の犯罪ドラマによくある、自分がした犯罪を隠すため、バレないようにするための利己的なウソではない。ある人物を愛するあまり、その究極の選択としてウソをつき、しかもそのウソを命がけで背負って責任をもっていく、というもの。

 主人公(榮倉 奈々)の、次のようなセリフがある。



●ウソは、最後まで貫き通すことで真実になる。



 彼女は、ある秘密を最後まで守ろうとした。

(それが貫き通せたのかどうかは、ドラマか原作を読んで是非お確かめを)

 ウソという言葉を聞くと、私たちは第一印象で「良くないもの」というイメージを持ってしまう。でも、冷静にウソとは何かと考えてみた時、「事実(本当のこと)とは違うことを信じさせること」である。果たして、これ自体をすべてのケースで「悪」だと言ってしまえるだろうか?

 ここで言う「事実」が、あまりにも残酷なものであった場合。相手が知らずに済むことなら、問題がないことなら、そっとしておくこともひとつの選択肢。

 


●心から相手を思いやることでつく嘘だってある。

 ウソをつくことで背負う心の重荷を覚悟してまでも——



 筆者は、そこまでしてつくウソに対して、悪いとかダメだとか到底言えない。

 もしその人物を否定するなら、その相手と同じだけの覚悟と論拠を持たないと、それは大変失礼なことである。しかし世には、批判している対象と同レベルの内的世界をもたないで安直に批判している輩が多い。

 それは、世界がまだ未成熟だからでもあり、それだけストレスフルな世界でもあるということだ。私は、心から相手を思うあまりに命がけでつくウソのことを——



●聖なる嘘



 そう呼ぶことにしたい。

 世にあふれる宗教・スピリチュアルもこれに当てはまらないだろうか?

 もちろん、その創始者なり指導者には、強烈に「これだ!」という確信に至る体験があり、真理だと本気で思うのでスタートさせたのだろうと思う。

 でも、一言申し上げる。教祖(メッセンジャー)よ、あなたは「人間」である。

 人間は、この世界を舞台に遊ぶ限りは、絶対の真実にたどり着けないように設定してある。仮に、誰かが絶対の真実にたどり着いたとして、なぜに数千年がたっても人類はこんなにバラバラなのだ? 皆、その真理を理解できないほど頭が悪いから? 霊的な優劣があるから?

 今たどり着いた人がいるなら、皆苦しんでいるからはよ広めたれや。絶対なんやから、皆聞いたら即座に分かるんとちゃう?



 先ほど言った「聖なる嘘 」の定義では、ウソをついている本人がちゃんとウソをついている(それが真実ではない)という自覚がある前提である。しかし、宗教やスピリチュアルがつくウソは、指導者たちが絶対の信実と本当に確信している、という点が違う。

 残念ながら、すべてのスピリチュアルは「ひとつの意見」である。悟りの世界すら、「ひとつの捉え方」かもしれない。

 そういう観点からすれば、覚醒において誰がホンモノ・ニセモノという議論は大して意味がなくなる。むしろ「確信犯的詐欺師と、真面目な思い込み」という違いを問う方が建設的かもしれない。



 百歩譲って、本当の「宇宙の大真理」があるとする。

 でも、人間という存在がもつ機能性の範囲では、個としての自我を通した目線では、それをとらえることができない。メガネをかけていてメガネを探すように、たとえ当たり前でもそれが見えない。

 また、それは皆さんの現実生活とも接点がまったくないはずだ。知ったところで、応用できない。

 でもやはり、宗教もスピリチュアルも、人の幸福に役に立つこともある。役に立つんだから、いいではないかとも思う。ウソも、ウソだからダメ、ホントじゃないからアウト、ばかりでは救われない人も出てくる。

 


●人を幸せにしない真実に、大して価値はない。

 人を幸せにしない真実よりも、人を幸せにするウソのほうがいい場合もる。



『MOZU』という人気ドラマの中で、で主人公の倉木警部(西島秀俊)は、こう言っている。



●オレは、一度真実から逃げた。

 だから、もう二度と逃げない。 

 オレはただ、真実を知りたいだけだ。そのためなら、何だってする。

 それが、たとえ残酷な真実だったとしても、オレは知りたい。



 このように、ある種の覚悟が持てるなら、ウソよりは真実がよい場合があるだろう。でも、ここまで腹を括って真実と向き合おうとまでするする人間は「真実を追っている」ような人間の中でも、そう数は多くない。

 多くは興味本位と暇つぶし。あるいは優越感の道具である。 


 

 人類歴史は、途方もないスケールのゲームであり、冒険小説だ。

 たかだか数千年や1万年くらいのことで、宇宙の答えが見つかるなんて甘い。

 とりあえず、現実に生きている私たちがそれなりに幸せに生きていくために、聖なる嘘を利用していこう。私はそうするつもりだし、これからもそれを発信していくだろう。

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