善悪は陰陽ではない?
言葉はヘンだが、スピリチュアル的上級者(?)層の意見で次のようなものがあるそうだ。
●善悪は陰陽ではない
そういうのを、どこかで聞いた。
この二元性世界においては光と闇、男と女、北と南、プラスとマイナスといった両極のペア……つまり『陰陽』でこの世界は成り立っているので、善悪という対応関係のペアもその範疇に入る、という前提で考える場合も少なくない。
つまりは、(残念ながら)善も悪も両方世には必要なものである、という話。
でも、ある種の考え方をする人に言わせると「そうではない」のだと。その根拠として、次のことを挙げる。
●光と闇、プラスとマイナス、生き物のオスメスなど、すべての陰陽ペアは「互いが互いを支え合って」存在している。しかし善悪に関してだけは、互いが争い、敵対している。
従って、善と悪というペアは、陰陽の範疇と考えるのは適切ではない。
まぁ確かに、左と右は互いにケンカしていない。
重いと軽いも、長いと短いも、別に離婚調停中ではない。(笑)
この世界に存在する二極のバリエーションの中で、『善悪』 というペアだけが、常に互いを嫌い、戦いを挑んでいるように見えなくもない。他のペアは互いを必要とし合っているのに、善も悪も互いを必要としていないどころか、相手が消えてなくなればいいとすら思っている。
そんなものを、陰陽のペアとして例に挙げるわけにはいかない——。と、そういうわけなんだろう。筆者からすれば、男と女は互いを支えあっていると建前上言えるが、ケンカし争うこともあるように思うんだが!
深層心理的には、「善悪を陰陽ペアと認めてしまうと、悪は必要なものとして永遠になくならないことになり、そんな理屈は成立させたくない」という思いがある。悪には「なくなってほしい」というのが、多くの人の思いだろう。
皆さんは頭が単純なので、こういう考えをしてしまう。
●今のこの世界から、悪いことだけがなくなった世界を想像してしまう。
「悪」が消える以外、他は何も変わらない世界を。
子どもが、「いちたすいちは、に」と計算するような単純さで。
このあたりの発想が、まだ人類は幼い。
悪がなくなる世界になるには、単純にこの世界から「悪いこと」が無くなるだけで済むとでも? 世界中の人間が何も変わらないで、ただ目に見える現象としての悪が無くなることはない。
すべての人の意識の中から、悪が一切無くならないと、そんな世界は来ない。
地球の数十億の人口でたったひとりでも、消えなかった人が残ったら、もうアウト。ものすごい感染力の細菌と同じで、少しの生き残りも許されない。
さらに皮肉なことだが——
●悪とは、「(幻想ではあるが)個としての違いが生む副産物」である。
たとえば、パン屋で食パンを5枚切りか6枚切りにスライスして売るとする。
スライサーと呼ばれる機械でかたまりを切っていくのだが、その際どうしても「パンくず」が発生する。それを無くすことは(今のところ)不可能である。
我々が言う「悪」とは、それに似ている。
この世界には、そもそも「完全なひとつ」が「分離」という幻想を味わいに来た。
「違い」というものを分かろうとしてやって来た。(ネスカフェ・ゴールドブレンド?)
そうしたら、イヤでも自動的に、強制的についてくるオマケが「意見の相違・思想信条の相違」であり、それが高じると「ケンカ・争い」となる。
食パンを売り続ける以上、パンくずが発生することは止められない。
この世界が存続する限り、「悪」と呼ばれるものは無くならない。
話が逸れかけたので、元に戻そう。
あるスピリチュアル上級者は、「善悪はペア同士が互いに支え合わず敵対してるので、陰陽ペアとは認められない」と言う。では、筆者の見解を述べよう。私は、何だったら陰陽のペアとして考える資格があるかの定義は、こうである。
●その対となるものが存在しないとすると、そのもの自体も存在できなくなるもの。
互いの性質が仲が良いか、敵対しているかは関係ない。
右という概念が存在しないなら、左も存在できない。
上がないなら、下というものもまた消える。
この世界に光だけだったら、光と認識できない。光と認識するためには、光を浮かび上がらせて名前を付けて呼べるための「闇」が必要。
無人島で生まれてからずっと一人で生きてきた人がいるとするなら(実際ムリだが)、比べる他人に一切出会わないので、自分が男か女か、背が高いか低いか、駆けっこが速い遅いか、まったく分からない。
もしこの世界に善しかなければ、人はそれを善とは認識しない。「ただ、それであるだけ」としか見ない。名前すらつかない。
善は良いことである、という考えは悪がないとできない。対比するものがなくなると、誰も「善がいい事であるとは考えない」。空気と同じで、「日頃わざわざその存在の価値を考えない、当たり前のこと」となる。
皆さんは図々しいので、意識の中には善悪の判断能力を残したまま、世界から悪が消えた世界を想像する。で、「なんと素敵な世界!」とうっとりするが、筆者からすればバカである。
その世界が実現したら、ウットリも喜びもなくなるんですけど!
旧約聖書では、人類歴史最初に人間が食べてしまったのが「善悪を知る木の実」だというのは、実に的を射た表現だと言える。
知ってる、分かるという能力を獲得しただけで、悪は必ず発生する。
昔、Dr.スランプというマンガで、
もちろん、時間を止めて女性に「あんなことやこんなこと」がばれずにできるというスケベな発想からである。
で、思いっきり期待して機械のスイッチを押す。
「時間よ止まれっ!」
さすがは博士! 本当に時間は止まった。
……ただし、博士自身もピタッと止まった。動けなくなった。(笑)
悪がなくなって皆喜ぶ、生きやすくなるという発想は、これと同じで片手落ちな考えなのだ。
同じ理屈で、この世界から「苦しみ」というものが無くなったとしよう。すると、それと引き換えに「楽」というものも一緒に家出する。
だから、もしこの世界から悪を無くしたいなら、善もなくなると覚悟せよ。もしこの世界からすべての苦しみを追放したいなら、「楽」も放棄する覚悟をせよ。
善悪を判別できる能力を残しながら、現象としての悪がなくなる世界を望むのは、お金を払わないで商品を自分のものにしようとする泥棒根性である。
筆者としては、善悪も陰陽(二極)と認める。
なぜなら、「陰陽ペアと呼べるためには、反対のものがなくなった場合そのものも存在できなくなるという条件を満たすこと」だと考えるからだ 。
善悪が互いがケンカしている、というのは実は宇宙事実ではない。人間だけが、自分の都合で善悪と名付け価値判断しているだけ。
鉱物も植物も動物も分子原子も(森羅万象・万物は)、人間が繰り広げている日常を「善悪」では見ない。人間だけが、「自分の都合・利益」という観点でそういう見方をする。
そういう意味合いにおいては、善悪は特殊である。
右も左も、熱いも寒いも、上も下も、男も女も、光も影も、実に分かりやすい。
(もちろん、寒さに強いエスキモーと、熱帯で生き雪も見たことない南国人とでは、暑さと寒さの基準に違いがあるだろうとは思う)
ただ善悪は、その基準が人により時代により立場により、全然違う。
だから、陰陽ペアとは言っても、このペアだけは他より扱いがややこしくはある。
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