友達を減らす

 今はどうか知らないが、筆者の世代だと幼稚園卒業間近になると歌う定番の歌があった。「一年生になったら、友達……人できるかな」というアレである。

 日本人は、幼少期にまずこの歌で洗脳される。

「友達は多ければ多いほど良い」 というウソに。で、皆みじめにはなりたくないので、必死こいて友達を作る。

 友達の多いやつは人望ありとして、褒められリーダーになったり人気者になったりする。友達が少ないと、「どうせ僕(私)なんて、人に好かれない」 と劣等感を持ってしまったりする。友達が(自覚できる範囲で)いないと、もうそのことだけで思いの世界がねじくれまくる。



●実は、友達の数が多ければ多いほど、比例して不幸になる傾向がある。



 だから私は、友達なんか減らしなさい、とアドバイスする。その言い方だけでは誤解も生じるので表現を変えたら、「厳選しなさい」ということ。

 中には「厳選するも何も、友達自体がいないんですけど……」 という人もいるかもしれない。その場合には、ケースによって二つのアドバイスがある。

 その状況にあなたが不満を持っている場合。「友達がいない今の自分はイヤだ!」 と思うなら、最低ひとり、親友と言える人物を得るために頑張りなさい。血反吐はいてでも作りなさい。

 で、ひとり作ったら、それ以上は趣味の領域である。もっと欲しければさらに頑張ればいいが、ひとりでも十分な感じがしたら、私ならもうそれで生きるのに十分と考える。

 もしくは、仮にあなたが友達がいないというその状況をそれなりに楽しめている場合。望まない余分な「付き合い」に振り回されないし、自分の好きなことに時間を割けるし、これはこれでなかなか! という方もいるかもしれない。それなら、それでよいと思う。

 本当に友達ほしい、と心から願えるのでなければ、たとえ自覚できる友人がゼロでも問題ない。いや、かえって表面上の友達の多い人間にこそ余計に問題がある。



 読者の方との認識の隔たりを減らすために、ちょっと整理しておきたい。

 友達、という言葉の定義だ。何をもって「友達と呼ぶか」ということである。

 分かりやすい例で言えば、フェイスブックでできる友人などは、その半分くらいは友達などではない。正確には「つながりのある人」と呼ぶべきである。

 一般人で、フェイスブックで100~200人程度の友達がいる場合、本当に深い付き合い(親交)があるのは1~2割程度だろう。有名人などで、限界いっぱいの5千人近く友達がいる人もいる。普通人の感覚としては「すげ~な」と思うだろう。もちろん良い方の意味で。

 でも、FBで5千人も友人がいる人は、可哀想である。その人生は、余分な贅肉ででっぷんでっぷんである。

 一般人が思うほど、華やかでも幸せでもない。

 筆者が友と呼ぶのは、調子の良い時や人気のある時に「テラさ~ん」と寄ってくる浮ついたやつらのことではない。人気や言ってることに関係なく、私が困った時にこそ一緒にいて色々と考えてくれる、骨を折ってくれる人のことである。

 皆さんは、吹けば飛ぶような繋がりすらも「友達」とカウントして、増えた増えたと喜んでいる。それは、体にゴミをぶらさげまくって、素敵なアクセサリーになったと喜んでいるようなものである。

 


●幸せとは、一概には言えないがあなたに関わるものの数が少ないほど、生じやすい。発見できるようになりやすい。



 ちょっと昔に大流行りしたのが、「断捨離」という考え方である。

 私は、この考え方にもろ手を挙げて賛成ではない。これは、物品の片付け方に応用するよりも、むしろ友達という名のつく曖昧な人間関係の人員整理に役立つと思う。

 皆さんが「友達」と呼ぶ基準は、意見や思想・信条がだいたい同じ方向性だったり、一緒にいてそれほど生理的に不快でないとか……まぁ一番の要素は「楽しい」ってことだろうな。

 あとは、利害関係の一致ね。私なら、それは「友達」にはカウントしない。「知り合い」と、私なら呼ぶ。

 皆さんの人生がを面倒くさいものになっているそのわけは、友達が増えるのが(交友関係・繋がり)良いことで、それが減ることは良くない、むしろ自分に魅力がないということだと考えているからである。

 あなたが頑張ってつなぎ留めとかなきゃ、離れて行かないように頑張らなきゃと思ってるその繋がりは、むしろ手放して楽になったほうがどれだけあなたに益か。



 ただ、こういうことを言う時に押さえておかなくちゃいけないことがある。

 いくらこの地上に沢山人間がいても、友達は最小限でいいというのは、何も一人ひとりに友達にするだけの価値がない、ということとは違う。それぞれに、価値ある命である。ただ、その「組み合わせ」において、無理にそのチーム組まなくてもいいでしょう、ということがあるだけなのだ。

 この地上で一人で生きることはできない。

 家から食べものから交通その他の娯楽サービスに至るまで、大勢の他人がいるから支えられている。それ自体には、感謝していい。しかし、その個々人と一人でも多くかかずり合わないといけないか、というとそれは別問題ではないか。

 全世界の人々の存在とその営みには感謝しつつも、自分が生きる舞台の登場人物は少なくする。出演する役者が多すぎては、監督も大変である。舞台の成功の維持も、難易度が高くなる。

 もちろん、中には難易度を高くしてもうまくやる人はあろう。つまり、友達が多くてもそれに振り回されず、良い付き合い方を維持できる方である。でも、皆が皆そうできるわけではない。むしろそんな人は、イチロー選手並にまれである。

 これを読んでいるあなたには、かなりの確率でその力量はない。



 先日も、本書の記事に書いた。

 有名人から、ちやほやする烏合の衆を取り去ったら、本当の友達の数は一般人と似たような数になる。むしろ、余分なものが多くくっついている分、有名人の方がハードな人生になる、と。

 フェイスブックの友人数の多さを誇ったり、自分がどれだけこの世界で人気があるかを誇ったり、追い求めたりするのはバカの所業である。お金を稼ぐということには貢献するかもしれないが、あなたの深い心の平和には妨げになる。

 私は、別に調整などしてないが皆さんの言う基準での「友達」は減った。

 表舞台で講演活動などしていた頃がウソのように、皆去った。

 でも、人生がシンプルになり、お金はないが幸せになった。こんな今の私でも、ご奇特にも関わりたい、支えたいという稀有な友人数人だけに支えられている。

 この友がいれば、私は一生満足である。いや、万が一彼らまで去って最後に一人になっても、私は自分を幸せでないとは思わない。イエス・キリストが実際そうだったのだ。

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