リンク切れに注意

 インターネットを利用していて、『リンク切れ』という現象に出会ったことはないだろうか?

 たとえば、あるブログで「この記事いいよ!」なんて紹介していたので、早速そのリンク先に飛んでみると、もうそのページが削除されていたりで存在しない、という現象である。

 二者の間に本来あった『繋がり』が失われた状態である。



 これは筆者の体験である。

「スピリチュアルTV」という、私が月3でレギュラー出演させていただいている動画配信番組がある。

 ある時私は、次回の放送予定日を頭の中で「22日の土曜日の朝」、と出演日を覚えていた。が、私はその前の夜、ゲームに熱中して夜更かしをした。いつもの私なら、「明日朝から配信の生放送だから、早めに寝よっと!」と思う所なのに……

 なぜそんなことができてしまったかというと、「出演日が5月22日だという情報を覚えていながら、それがまさに明日の朝なのだという認識に繋がっていなかった」という状態だったわけだ。ミッシングリンク、という状態。



 眠い目をこすって起きた私は、スピTVの出演なぞまったく忘れていた。

 でも、番組をブッチしなくて済んだのは、奥さんのおかげである。奥さんは、私のスケジュールを気にしてカレンダーに書きこんでおり、朝一番に「あんた、スピリチュアルTVの日やないの?」と教えてくれたわけだ。

 それで私は「ハッ」として、おおそやった! と大慌てで用意をしたというわけ。

 出演日を頭で覚えていながら、それがまさに今日なのだという肝心なリンク先への「リンク切れ」を起こしていたのである。それでは、せっかく情報だけ知っていても何の役にもたたない。



 スピリチュアルを実践していて、そういうこともあるのではないか。

 スピリチュアル実践者は、基本真面目で熱心な人が多い。スピリチュアル用語からメッセージ内容的なこと、各種宇宙の法則(発信者がそうだと言い張る)まで、ものすごい情報量を知識として持っていたりする。

 しかし、それらはただ「知っているというだけで、役に立っていない」ことが多い。なぜなら、今回の筆者の経験のように——



●目の前で「それ」が起こっているのに。

「それ」に関しては、すでに知識として分かっているのに。

 目の前の「それ」が学んだ情報としての「それ」だと、その人の中で一致していない。リンク切れを起こしているのだ。



 よく、「アハ体験」という言葉を使う。

 単純には、「なるほど、そうか!」という体験である。

 これこそが「リンクが繋がる」という現象である。そのことと、このことが無関係ではもはやなく、関連性のあるものとして今後扱われるのだから。

 その人の後の人生では、二者の内一者だけが意識に昇っても、必ず二者目もセットで思い浮かぶようになる。なぜなら、その二つはもう切っても切れない関係になったからだ。リンク(鎖)で、離れがたい関係になったからだ。



 生きるという行為は、意識の中のあらゆることに、目の前の現実とのリンクをはることである。

 そのリンクが多ければ多いほど、人生は豊かになる。味わい深くなる。

 でも、時として人は勘違いをする。本で間接的に知り得ただけの情報や、講演会で精神ステージの高い者から聞いただけの話をもってして、自分は汗をかいていないのに「なんだか分かった気になる。会得した気になる」という問題はよく起こる。

 流行り言葉で「腑に落ちる」という言葉があるが、そんなものそう簡単には落ちない。頭で「そういうことか」と理屈を了解しただけで、腑に落ちたと言ってしまう人が結構多い。

 フムフム、なるほどとスピリチュアルを文字や音声言葉で習って一歩家から出ると、目の前の現実とスピリチュアル情報とのリンクがうじゃうじゃあるのに、その人の中ではまったく繋がって見えず、気付きをボロボロこぼしながら歩いている。

 で、「今日もブログ特に書くネタねーな……」 なんてため息をつくのである。



 リンク切れに気付ける、唯一の道。それは——



●人に迷惑をかけること。

 他人の世話になることで、気付ける世界がある。



 迷惑をかけた人からのリアクションで、リンク切れに気付ける場合が多い。

 三つ例を出そう。

 まずは、冒頭に紹介した筆者の体験。22日がスピリチュアルTVの放送日だと知っていながら、当時の朝ボーッとしていた私に、奥さんが気にして教えてくれた。本来ならば、自分でできていないといけないことを、奥さんという本来責任を負う立場でない者に甘える形になった。

 でも、そのことによって気付かされ、今後注意しようと固く思ったですよ!

 ふたつ目は、「鶴の恩返し」。

 決して見ないでください。そう言われて、「見てはいけない。妻は見てほしくないらしい」ということは情報としては分かった。が、本当には分かっていなかった。だから、実際の行動としてはのぞき見をした。

 で、当然見られた鶴の女房は、悲しみながら鶴としてどこかへ去っていく。愛する者に去られて、ようやく自分はとんでもないことをした、と分かる。でも、そんなのは後の祭り。

 男はようやく「見てはいけないと言われたものを見たら、どんなことになるのか」を、鶴にも自分自身にも「迷惑」をかけながら高い授業料を払って学んだのである。

 旧約聖書にある人類始祖のアダムとイヴも、神様から「禁断の木の実を食べるな。食べたら死ぬぞ」と言われていた。言われていたが、本当に「分かっていた」のなら、食べないはず。でも食べたということは、「リンク切れ」状態だったのだ。食べたらえらいことになるという文字情報が、本当の怖さとして理解されていなかったもんで、誘惑に負けた。

 してみると、社会的にも立場のある人物が女子高生に痴漢とか盗撮とかして捕まるのは、「そんなことしてバレたら自分だけでなく、家族や親にも迷惑がかかる」ということを頭では分かってるくせに、「リンク切れ」を起こしていたから踏み切れたものと思われる。

 


 このように、頭で分かっているけれど、実際の深刻さとして現実に生かせないことを、リンク切れ状態と言う。これを改善するのに、独力オンリーでできる人はほぼいない。大なり小なり、他者に迷惑をかけながら、世話をかけながら気付くことがほとんどである。

 だから私は、ふたつのことを提案する。



●他者に迷惑をかけることを過度に恐れない。過度に恐縮しない。

 また、あなたが他者から迷惑をかけられた場合、内容にもよるがそう嫌な顔ばかりしないこと。

 だって、お互い様。互いの気付きのために、持ちつ持たれつ、なんだもの。



 次のようなたとえ話がある。

 天国ではものすごく長い箸しかなく、長すぎて自分の口に運んで食べるには不向き。でも、その箸で他人に食べさせ、他人から食べさせてもらうのには丁度いい。

 その話に似ている。

 集団スポーツと同じで、一人のスタープレイヤーだけなら要らない。皆が協力してこそ、お互い様精神を持ってこそ、世は個々の幸せを生みやすいのである。

 でもスピリチュアル界では、めっちゃ成功して輝く一握りの発信者と、それを崇拝し追随し二番手以降に甘んじる「その他大勢の受け手」という構図になりやすい。スピリチュアルやってる個々人に話を聞いても、一般人並に悩みや苦しみはあり、立派な発信者ほどに「大丈夫」って人にはなかなか会わない。



 これからの時代にスピリチュアルが生き残る道は「高名な、稼いでいる、目立っている発信者と聞き手との格差がさほどなくなること」だけ。

 今のような在り方では、スピリチュアル界は次のステージには行かない。お互い様なんだから、一人の傑出した人物はどちらかというと余計なのだ。

 その「お互い様」を忘れさせ、信者にかしこまらせてしまうから。

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