引き寄せは結果論

 皆さんは『ねずみ経』という昔話をご存知だろうか。



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 むかしむかしあるところに、お婆さんが一人で住んでいた。

 亡くなった爺様のためにお経をあげてやりたいと思っていたが、ちゃんとしたお経など知らない。

 ある夜、道に迷った僧が一晩泊めてほしいと戸を叩いてきた。

 いい機会だと思い、お婆さんは泊める代わりにお経を教えてほしい、とお願いした。さて、困ったことに僧は実にいい加減な坊主で、お経などろくに勉強したことがなかった。

 でも、そうは言えない。困ってふと壁の隅を見ると、その穴からねずみが出てきた。僧はもうやぶれかぶれで、おばあさんがお経の正解を知らないのをいいことに、状況をそのまま言葉にして誤魔化すという暴挙に出た——



●おんちょろちょろ出て来られそうろう



 今度は床の穴から、別のねずみが顔だけ出している。



●おんちょろちょろ穴覗きそうろう



 今度は、その二匹がちゅうちゅうと会話らしきものをし始めた。



●なにやらふにゃふにゃ話されそうろう



 僧の声に驚いたのか、ねずみは仏壇の陰に隠れた。



●おんちょろちょろ隠れてそうろう



 でもまたすぐ出てきたので——



●おんちょろちょろまた出てそうろう



 するとねずみは、穴の中に帰っていった。



●そのままちょろちょろ帰られそうろう、おんちょろちょろおんちょろちょろ



 このテキトーなお経を教えた僧は、一晩泊まった後帰ったが、お婆さんはその後も何も疑うことなく、ありがたがって「おんちょろちょろおんちょろちょろ」と唱え続けた。



 ある晩のこと。二人の泥棒がお婆さんの家に忍び込もうとした。

 家の中の物音に耳を澄ませると、お婆さんの声が聞こえてきた。


 

●おんちょろちょろ出て来られそうろう



 ?  おれたちが来てるのを、まさか悟られている?

 見抜かれているようで少々怖くなったが、まずは中の様子を探ろうと、泥棒の一人が障子に穴をあけて中を覗き込もうとすると——



●おんちょろちょろ穴覗きそうろう



 うへっ、覗いていることが分かるとは! あの婆さんには神通力でもあるのか?

 逃げるべきかどうか、二人の泥棒がひそひそ話し合っているところへ——



●なにやらふにゃふにゃ話されそうろう



 そこまで見抜かれた(と思った)泥棒は、隅の物陰に隠れた。



●おんちょろちょろ隠れてそうろう



 さすがは泥棒、それでもあきらめきれずにまた近付くと——



●おんちょろちょろまた出てそうろう



 うへっ、これはかなわん! 泥棒は気味悪くなって逃げ帰った。

 彼らに追い打ちをかけるようにお婆さんは——



●そのままちょろちょろ帰られそうろう、おんちょろちょろおんちょろちょろ



 お婆さん本人は、裏でそんなドラマがあったことを何も知らない。



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 純粋でただ善良なお婆さんの意識が、良い結果を生んだ(引き寄せた)という解釈は、物事を単純化して考え過ぎる愚かさの産物である。意識が現実化する、というのなら、もっと分かりやすく——


 

●素敵なお坊さんが引き寄せられ、ちゃんとしたお経を習える



 それがもっとも自然であろう。

 いい加減なニセ坊主が、泊めてほしいからウソのお経を本物と偽って教えたのは、はっきり詐欺まがいの行為であり、価値判断上は「悪」と分類される行為である。

 確かに、お話を最後まで聞けば、結果的に「それでよかった」ということになるが、結果が良ければ過程は「悪」や「道に外れたこと」でもいいのか。

 もし、お経を学びたい一心のお婆さんがにせ坊主を引き寄せたということなら、純粋で善良な意識がそれと似た波動のものを引き寄せる、ということばかりではないということ?  泥棒にしてもそうだ。

 結果さえ良ければ、過程はどうでもよいのが引き寄せなのだろうか。



 何かを「引き寄せた」と思っても、それはあなたの意識がすべてを生みだし、状況を操作したのではない、ということは謙虚に分かっておいた方がよろしい。

 何かを得るのに、あなたが他人をそう仕向け、そう考えるように動かしたなどというのは「超」がつくファンタジーである。他人があなたの願いに対し首を縦に振っても、それはあなたが「OKを引き出した」のでは絶対ない。あなたの侵犯不可領域において、あくまでも他人が自分の権限の範囲内で『たまたま、あなたが望むこととその人物の判断とが一致した』というだけである。

 それを分からないで、何でも「意識ですべてが可能」と思って調子こいていると、いつの日にか大やけどをする。あなたの知らないところで、事態はもっと複雑に動いている。

 あなたは結果だけを見て、シンプルに「成功か失敗か」で見るかもしれない。

 しかし。目に見える結果が出てくるまでに、状況は実に色々な行程と無数の力学的干渉による変化を繰り返している。単純にあなたの意識の在り方がどうだったか、なんてことですべては決まらない。

 たとえばフランダースの犬の主人公ネロ君は、意識が純粋でもダメだった。

 コンクールに絵を出品するが、まさか絵を預けたオヤジの怠慢で、絵がコンクールに出されさえしなかったなんてネロは知らず、自分は才能ないんかなぁ、と思うハメになる。

 ネロのひたむきな情熱は、いい加減なオッサンの意識すらコントロールできなかったのだ。

 


 引き寄せとは、『結果論』でしかない。

 あなたが本当に何かを願い、引き寄せ本に書いてあるようなことを実践した → 一定時間の経過の後、その望み異通りのことが起きた、ということが仮にあったとしよう。しかし、ストレートに「あなたの意識がそういう状況を作り導いた」部分は1ミリほどもない。

 ただ、あらゆる不確定要素も加わって計算されてチーンと出てきた結果が、たまたまあなたの望みと一致していた、というだけのこと。

 野球で例えると、ピッチャーが投げた大暴投が、球場の壁に当たり次にベンチの角に当たりして、最後に結果的にキャッチャーのミットに収まった、というようなことである。

 ストレートに直球を投げてストライク、というのが「あなたが引き寄せた」ということに例えられるなら、そんなことはこの世界では起こらない(望めない)ということだ。

 あなたは、状況をコントロールできるようで実は一切できない。

 すべて起こるべきことが起こり続けているが、ゲーム世界の中にいる我々にはすべてが外部入力のシナリオ通りだとは分からない仕掛けである。だから、この世界の中では「自分次第で何だってできる」という解釈はまぁ普通であり、それ自体おかしくはない。

 ただ、それを疑わなさすぎず真実にしてしまうと、うまくいかない者を「怠け者扱い」することになる。うまくいかないのは、やりようがまずかっただけになるから。この世界に不可能はない、という言葉は前向きな状態にある者には素敵な言葉となるが、そうでない者には責め言葉となる。「どうやっても無理」と言ってはいけないのだから。



 二人の泥棒がお婆さんから逃げていったのは、まさに「結果論」である。

 まぁ悪意ある詐欺のお経も、結局転じて良いことに繋がった、という解釈はあるだろう。でも、そもそも何で良い結果を引き寄せるのに悪いもの(ニセ坊主のウソ)が生じる?

 まさか、人の悪意まで利用する頭の良さを「引き寄せのエネルギー」は持っている? あなたの無意識は、器用にそんな作戦も考案するのか?



●無意識下でそんな現実を組み立てるというなら、引き寄せに使われるエネルギーや無意識には、『思考』がちゃんとある、ってこと?



 エネルギーに思考があるわけないし!

 無意識内に思考(自我)があったら、それもう無意識じゃないし。だって意識がないのが無意識なんだろ? 作為的に何かを組み立てられたらおかしい。

 結局、厳密には「引き寄せ」など存在しない。

 ただ、あなたの願いと、起こる結果的現象を見て「引き寄せた」と物語付けできるのなら、そういうファンタジーは生きる上で励みになるし、あっていい。ウソでも、人間生きる希望は必要だから。

 今「ウソ」という言葉を使ったが、それは筆者の世界観の中だけである。皆さんは無理に筆者に従わなくていいし、ここで述べた言葉を信じなくていい。

 逆に信じるな、とも言わない。ただ、あなたが選択したいほうでいいのだ。



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 追伸。フィクションの作り話(昔話)は、現実的なことを論じる上では材料として不適切ではないか、と言われそうですが、これに類似したことは現実にいくらでも起こっていると思いますよ?

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