言動の不一致

 かつて信州大学の入学式での、学長の挨拶の内容が話題になったことがあった。

 現代人の『スマホ依存』に警鐘を鳴らす次のような内容が含まれていた。



「スマホやめますか、それとも信大生やめますか」 

「スマホは知性、個性、独創性にとって毒以外の何物でもありません」

「スイッチを切って、本を読み、友達と話し、自分で考えることを習慣づけよう」

「物事を根本から考えて全力で行動することが独創性豊かな信大生を育てる」



 ……というような内容を語ったようだ。

 良心的な学生は「学長はスマホ自体を否定しているのではなく、使う際のバランスや学生の本分を忘れるな、と伝えたかったのだろう」という、涙がちょちょぎれそうな素晴しい理解を示しているが、これを聞いた全員がそんな気の利いた捉え方をしてくれるわけではない。

 言葉というものは、怖い。配慮してさえ誤解されることもあるのに、ましてや配慮しないと言葉が独り歩きし、えらいことになる。いくら学長がよかれと思ってそういう言い方をしたにせよ、「スマホやめますか、それとも信大生やめますか」では、言葉選びのセンスがひどすぎる。


 

 まぁ、学長の話はいい。それは今回の本題ではない。

 今日問題にしたいのは、この報道を受けての一般人の反応である。ヤフーのニュース欄にこの記事がアップされていたが、末尾に読者が入力可能なアンケートが引っ付いていた。『あなたは、この学長の挨拶を読んでどう思いましたか?』という質問になっており——



●共感できる

●共感できない

●どちらとも言えない



 この3つから選ぶ形になっていた。

 筆者がこの記事を目にした時点で、共感できるが全体の80%、共感できないが11%、どちらとも言えないが9%、という結果だった。この比率を、皆さんどう思われるだろうか?

 えっ、特に何も感じない? おぅ、あなたはいい人ですね。

 私は少々ひねくれているので、こういうことを指摘したくなる。



●共感できる、と答えた人のほとんどは、スマホ利用を控える気はない。



 人間とは、デフォルトではダメダメである。

 スピリチュアルの世界ではよく、人というものはその存在(命)自体に絶対の価値があり、完璧と言う。でもそれは、究極視点からの理屈であって、このゲーム世界では通用しない。

 例えば、RPGゲームを開始して戦士を育て始めれば、最初はレベル1で、装備もしょぼくたいがいの敵に負ける。同じLV1の弱っちいモンスターにしか勝てず、最初はそればっかり相手にしてレベルを上げるしかない。

 つまり、幻想世界視点ではありのままに価値などない。人間も、教育や経験(訓練)を通して磨かれないと、誰の目にも求められるような分かりやすい価値は出ない。そういうったまだまだ磨かれきっていない人には、次のような傾向がある。



●言っていることと行動が一致しない人種



 スマホは人を毒する、ということに「そうだよね」と共感することと、でも「スマホをやめる気も使用頻度を下げる気もない」ことが両立し、しかもそれを「気持ち悪いと思う感性がない」状態。

 人間は、自分に危害や損害が及ばないと安心できる環境では、結構素直な思い(ホンネ)が出せる。

 あなたが「スマホはよくない、という意見に共感する」という回答をしたからって、誰もあなたのスマホの使用状況など追及してこないからだ。「おかしいじゃないですか」 などと言われる心配はない。だからあなたは安心してスマホを使い続けられる。

 スマホをいじってばかりじゃダメだな、と思ってもやめられない自分を客観的に見て、少々は自分に幻滅したりダメだなぁって思える人は、かなり健全だ。

 私が警鐘を鳴らしたいのはむしろ次のような人種である。

 


●反対の事を同時にしていて、まったく問題意識の湧かない人。

 さっきのアンケートで「共感する」に投票しておきながら、自分の現実と結び付けて考えることからはまったく切り離されている人。気分よく、それが両立してしまえる人。



 実は、それからの脱却を目指しているのがスピリチュアルである。

 なのに中にはそこを見失い、やればやるほどその「恐ろしい無自覚・無感覚」に陥るスピリチュアルもある、という嘆かわしい現状もある。

 日頃から言っていることと実際の行動とが同方向を向いており、ズレが少ない人。筆者は本物とかそうでないとかいう基準はキライだが、あえて言えばそういう人からは学ぶべきものがある。

 その本物かどうかの見極めに使う眼鏡の精度は人によってまちまちなので、結局色々なタイプの指導者が世に跋扈することとなる。本物かどうかを判定する基準として「人気」という指標は一番使われやすいが、一方でかなり信頼性の薄い指標でもあることを知らねばならない。



 筆者は人から、あることでたまに褒め言葉をいただく。

「賢者テラさんって、言っていることとやっていることが一致している人ですね」

 もちろんこれは、その人自身のひとつの解釈に過ぎず、本当かどうかということは別。ただ、誰かがそう見てくれている、ということは素直にうれしいものだ。

 私は、言動やスタンスが読者もご覧の通りなので(笑)、好いてくれる人はそう多くない。口は悪いが、でもひとつだけ自分に誇れることがある。自信のあることがある。



●気持ちの通りのことしか言っていないし、やっていない。



 私は、一日中スマホをいじり倒している。外から見て依存症、と思われても仕方がないくらい、スマホがないと生活が成り立たない。

 でも、私は信州大の学長が警告するように、知性や個性、独創性が毒されているか? 損なわれているか? 人間性の劣る、ダメ人間にだんだんなりつつあるか?



●いいや、結構いけてると思うぞ。



 スマホを使っていない多くの人より、知性と独創性は生かせていると思うぞ。

 とにかくだ。人として、幻想ゲームプレイ上結構重要なアイテムは——



『素直な気持ちと行動の一致』

『そうじゃない時に感じる、気持ち悪さ。すわりの悪さ。警告アラーム』



 それがないから、だんだん初心からずれていく。

 いじめなんてのは、ここから起こる。最初はこれではよくないんじゃないか、というザワザワした危機感を感じるが、保身のために逆の選択を続けていくうちに無感覚になり、やがて平気になる。

 この現代社会に閉塞感というものが漂っているのだとしたら、このせいである。あまり、時代のせいにしてはいけない。



●皆さんの勇気のなさが、この時代とあなたの不幸を作っている。



 いるでしょ。本書のいくつか前の記事で紹介したが、高橋みなみのイジメの授業を見て感動しておいて、実際の現実ではいじめを実行しているような人。つまり「それとこれとは別」という見事に自分勝手な世界観が確立しているんだよね、その人の中で。若い女子みたく「スィーツは別腹」っていうのならまだカワイイが、こっちの「別腹」のほうは有害だ。

 学校の要職にありながら、未成年を守る教育者の立場にありながら、自分は女子高生と出会い系か何かで性交渉をもっていたり、とかね。それも、この無感覚の極端な例。

 でも、何でも最初は小さな種から始まるものだ。スマホはいかんという意見に賛成しながらも自分は使用を減らす気もない、というのはまだまだガンでいうと早期発見に入る。

 まだ間に合う。対岸の火事主義・うわべとホンネのちぐはぐ人間はやめて、潔い人生、という名の選択をしてみませんか?

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