大造じいさんとガン

 筆者が小学生の頃、国語の教科書に載っていたこの物語の題名を聞いた時——



「大造じいさんがガン(病気のほうの)と闘う悲しいお話なのか?」



 ……と誤解したものだ。

 よくよく読むと、大造じいさんはガンで闘病生活をするどころか、銃をぶっ放すやり手の猟師で、ピンピンしたじいさんだと分かった。で、ガンは鳥の名前であることも分かった。

 要するに、ハードボイルドなおとこのドラマ。小学生の頃、国語の教科書で勉強して思い出に残っている方も多いのではないか。



 大造じいさんは、凄腕の猟師。

 しかし、そのじいさんをもってしても仕留められない、賢い鳥(がん) がいた。その体の独特な模様から『残雪(ざんせつ)』と呼ばれていた。

 相手は渡り鳥なので、勝負時は年に一度。毎年、大造じいさんは鳥の習性を利用した罠を仕掛け戦略を練って臨むのだが、残雪は毎年大造じいさんの一枚上を行き、まんまと逃げおおせるのだった。

 ルパン三世から「あばよ~とっつぁ~ん」と言われる銭形警部のように悔しがるじいさんは、来年こそは……とあきらめず望みをつなぐのだった。



 で、ある年のこと。

 残雪には落ち度はなかったのだが、たまたま猛禽類のハヤブサの襲撃、そして逃げ遅れた仲間を助けて逆に……という要素が絡み、残雪はケガを負った。飛ぶ力を失った残雪を捕えるのは、もう赤子の手をひねるようなものだ。

 でも、大造じいさんは、残雪に手当をした。そして治った頃、飛び立たせるままにした。

 フェアプレー精神とでもいうのか。万全でない相手を、その弱みに漬けこんで倒すなど、一流の猟師としてのプライドがゆるさなかった。あるいは、本当に「一生のライバル」と認めた好敵手への礼儀だったのだろうか。とにかく、大造じいさんは残雪を殺す機会を見送った。



 ……ざっと、そんな話だ。

 これは、人の在り方の一種の理想というかな。特に、何かに一流と言われる人物同士では特にそうあってほしい、みたいな。

 普段は、ある分野の中でトップを争ってもらってもいい。平時においては、敵同士として争ってもいい。

 でもそれは、互いが万全の状態であるという条件下のみ。ひとたび誰かに問題があったなら、支えてやる。

 上杉謙信と武田信玄の間柄ではないが、『敵に塩を送る』 みたいな?

 で、相手が元気になったらまた元の関係に……



 で、スピリチュアル界ってどうよ。

 一応、愛とか精神性の向上とか幸せとかを扱っている分野ではある。それにしちゃ、スピリチュアル界の関係性で大造じいさんと残雪のような関係に思えない状況もある。

 考え方の真っ向から違うふたつが、フェアプレイに則って意見を述べている、というよりは本気で叩き潰しにかかっている、みたいな? 表面上は戦ってはいても、いざの時には手を取りあえる、という雰囲気が感じられない殺伐さがあったりする。

 皮肉な話、理想主義の度が高ければ高いほど、それを否定するものや反対のことを主張する教えには容赦ないという感じがする。 



 もちろん、筆者もあまり他人の事を言えたものではない。

 これまでにも幾つか、特定のスピリチュアルに対し批判を展開してきている。

 ここから先は「どんなものであれ批判自体するものではない」という意見の方には聞くに耐えない話をするので、自覚のある方はお帰りいただきたい。

 ……さて、ここを読んでいると言うことは、続けても大丈夫っすね。

 筆者のする批判は、自分で言うのも何だが「信頼」に基づいてやっている。

 さて、その信頼とはどんな種類のものかというと——



●私がちょっと批判したくらいでぐらついたり不利益を被ったりするようなヤワなヤツなら、初めっから発信などするわけがない、という信頼。



 たとえ私が全力で毒舌を吐いても、相手も命がけで、全身全霊でやってらっしゃるはずだから、その本気(マジ)度は決して私に劣らないはずだ——。その信頼があるから、全力で批判できる。

 でもまた同時に、私はこの「大造じいさんとガン」精神は持っていたいと思っている。

 互いの共通の土俵外のことで相手に何かあったら、一時休戦。あるいは手を差し伸べるくらいのことは、やれるつもりである。スポーツでもないし、元来競い争うことは全然スピリチュアル本来のすることではないのでヘンに聞こえるだろうが。

 筆者があえて批判する場合は、相手を叩き潰したいからではない。葬り去りたいからでもない。

 それでは誤解する人がでますよ。その言い方、その論理では誤った方向にミスリードされかねませんよ——。そう警鐘を鳴らしたいがため。私としては、そういった恐れをはらんだ情報を見過ごしにできない。

 発信者(メッセンジャー)をやるほどの人物ならメンタル的にタフだろうから(そうじゃないならやるなよ!)、そいつのことは配慮しない。遠慮なく物申す。でも、そのメッセンジャーの言葉選びの誤りひとつ、誤解ひとつでそれについていくファンや心酔者がどえらい目に遭う、というのからは優先して守る必要がある。メッセンジャーとその聴衆なら、優先して守るべきは絶対に聴衆のほうだから。



 筆者は少なくとも、相手に消えてなくなってほしいと思って批判していない。

 その人物にも守るべきものがあるだろう。家族、そして食っていく安定した収入源。それは私だって同じだから、いざという時の礼節(フェアプレイを貫くエチケット)とこれくらいの指摘は腐らず受け止め参考にして生かしてくれるはずだ、という信頼。この二つは常に持って戦いたい。

 まぁでも現実は、大概のケースで受け止めるよりもヒョイとかわされて終わりのことが多いが……とにかく、この二つなくしての批判は、ただの言葉の暴力である。

 あと書いてて思ったが、批判すること自体がいけないという考えの人には、私の言ってることはまったく意味不明だろうな、と思う。



 たとえどんなにきれいに聞こえる意見だろうが「どんな場合でも~はいけない」という考え方をする人は、この世界の素晴らしさの半分を味わいきらず捨てている、と思う。

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