見逃してくれよ!
ちょっと古いB級ニュースが、今回の話のネタ。
とある学校で、先生が授業中に教材としてある動画を見せようとした。その際、先生は私物のパソコンを用いて、動画再生しようとした。
ここでまず、ひとつのツッコミ所は、学校側の課題。
●なんで、それが備品にない? なんで自前?
先生が私物を使わないといけない、という状況が不思議だ。まぁ、それは今日の話の焦点ではないので、さっさと話をすすめる。
クリックする場所を誤ってしまったのだろう。間違ったものが画面いっぱいに映ってしまった。それは……
●エロい静止画像のスライドショー。
この先生にしたら、生涯で一番か二番くらいに、心臓に悪い経験だったのではないか。筆者などからしたら、もうその心臓に悪い経験で十分、責めは負っているような気がする。
もちろん、生徒への対応や謝罪は必要だが、それ以上の領域で追い打ちをかける必要ってある?
確かに、褒められた話ではない。チョー恥ずかしい話だし、不注意な話だ。
私物のPCをつかう以上、今回のような事件が起こる可能性はゼロではなかったわけだ。その「危機管理」能力に欠けていたこの先生は、明らかに『一本抜けている』とは言える。
でも、それ以上にさらしものにする必要って、本当にあったか?
筆者があえてこういう記事を書いているのは、ごめんなさい恥ずかしいわ、で終わらずこの事実が広く「報道」されてしまったからだ。日本語が読める限りにおいて、世界中に知れ渡ってしまったわけだ。
クラス内の、当事者同士の対話による解決で終わらせてくれなかった。恐らくは、生徒から他の先生や親に、果ては教育委員会にまで通達された。
事はさらに大事となり、この先生のしたことはメディアの餌となり、日本中の好奇の目にさらされることとなった。
私はもちろん、この先生のやった失態が良いことだとか、謝りさえすれば済む軽い問題だとは言わない。でも、報道されて社会的にフルボッコするよりももっと「ふさわしい償わせ方」があるはずだと思う。
学校とは、字の如く学ぶところだ。数国理社英、だけでなく「人」としての在り方も。今回の事例なんか、生徒側にとっても一番良い学びの機会になったのに。
昔の経験だが、筆者は当時縁あって仲が良かった近所の中学生の男の子を誘い、映画を見に行った。彼が「ヒマ」だというので、だったら観たい映画があるけどついてくる? っていう軽いノリだった。
実は彼はウソをついていて、重要な予定があったのだ。それがイヤなばっかりに、私の誘いについてきたのだ。帰ってきたらば、この子の父親が家の前で待ち構えていた。かなり怒っていた。
そこで、すべての事情が分かった。私は悪気はなかったとはいえ、相手がウソをついていたとはいえ、やるべきことのあったその子を遊びに連れまわしてしまったのは事実。私は頭を下げて深く謝罪した。
そしたら、その子の父親が、男の子にこう言った。
●ちゃんと見ておけ。
今回は、本当を言えば〇〇さん(筆者)が悪いんじゃない。お前がヒマってウソをついたからだし、あくまでもご厚意でお前を連れて行ってくれたんだ。
でも、本当のところは悪くなくても、起きた結果を潔く見て頭を下げているだろ?お前のために。
これが、大人ってもんだ。大人の謝り方だ。
ようく見ておけ。お前の将来に絶対に役に立つから——。
これが、生きた「学び」だ。
失敗さえも、大人と子どもがお互いに学び合う機会にできる。それが教育だ。
もちろん、事の重大さによっては、当人同士の話し合いで済まされない場合もあるだろう。でも、今回のケースでは、こういう『学び』の機会にできたのではないか? それをゆるしてくれなかった余裕のない世界が、今の日本の姿なのである。
●自分の関わっていない世界のことは、その世界の人間が責任をもってすべき。
子どもを学校に預けているのだから、先生という教育のプロがきちんとすべき。
なのに何ですか、このザマは! 教育者ともあろうお方が、なんて破廉恥な!
失礼ながら、この先生と先生を責める親たちや教育委員会のお偉方も、このニュースを聞いて 「へぇ~、アホなことしたな~」と思うわれわれも、多分そう変わらない。人間としての質とレベルは同じだろうと思う。
なのにこういう報道を聞くと、フツーに法に触れずちゃんと生きれている自分がマシな側の人間で(それだっていつどう転ぶか分からない世界なのに)、この先生が落伍者というか、ダメ人間に思えてくるから怖い。
●あなたがバカにする人間とあなたとでは、そう大した違いはない。
ある時イエス、キリストは、売春現場を押さえられた風俗嬢をつかまえた人物に「ユダヤの法律にこういう女は石で打ち殺せとありますが、どうしましょう」と問われた。そこでイエスが言い放った一言は——
『この中で罪がない者から順番に、石を投げなさい』だった。
すると老人からはじめ一人ひとり、その場から去り誰もいなくなった。
「女よ。あなたを罰しようとした人は誰もいないのか。」
「主よ、誰もございません」
「私もあなたを罰さない。以後は気を付けるように」
これが、寛容である。ゆるしである。学びである。
史実は違うかもしれないが、この女はその後心を入れ替え、二度と売春には手を染めず、イエスに従っていったと伝える話もある。我々は、人としてのそういう営みをこそ求めているはず。なのに今回の教師への処遇は、寛容のかけらもない。話をこれほど大きくしてしまった。
もはや、先生生徒間で話は済まなくなり、せっかくの生きた学びの機会も損なわれた。そこは大変残念に思う。
世の中には『見せしめ』という言葉がある。
取り締まってもキリがない現象に対し、いくつかサンプル的に摘発しひどい罰を与えることで、「お~こわ。つかまったらああなるのなら、これからはやめといたほうがいいかも?」という心理を植え付けることができる。そうした「抑止力」という側面を期待しての、一部のつるし上げが、見せしめである。
今回、一教師の恥ずかしい失敗を新聞記事になるほどの話にしてしまったのは、ある種の「見せしめ」的効果を狙ったものではないかとも思える。このニュースを見て、全国の教師たちが「怖いな。オレも気を付けよう」と慎重になるのが狙いか。
でも、そんなことのために大事な人生をダシにされたこの先生にしたら、たまったもんじゃない。人ひとり社会的に葬らないと、学べないほど人はバカなのか。イエスを処刑しなければ学べなかった二千年前の人類のように——。
見せしめ、という行為が国家(社会)レベルで公然と行われる社会は、未熟な社会だ。もちろん、やったことの程度にもよるが、今回は明らかに当事者同士でケリのつく話。
社会に余裕がないからだ。
明日は私かもしれない。この世界では、普通に生き通すことこそが難しい——。
そんな内に秘めた「恐れ」を忘れたいかのように、他人に厳しくなる。そんな心の狭さで、互いが傷付け合っている。
筆者が昔キリスト教会に通っていた時、海外の教会を視察旅行してきた時に撮影した動画を上映したことがある。
高齢化した教会のことで、パソコンに詳しい人もおらず、当然備品としてもない。一台あるにはあったが、フロッピーディスクなど入れるような古すぎて動画など扱えない代物だった。
仕方なく自前のPCをプロジェクターにつないでで動画再生したが、私はあることに気付いた。教会視察旅行、というアイコンをクリックするその横に、趣味でダウンロードした「爆乳女教師なんちゃら」というエッチ動画のアイコンがあった。
再生するというひどいことにはならなかったが、一瞬だけアイコンのタイトルの文字だけが大画面で読み取れる状況が数秒あった。
あっと思ったが、誰も気付かなかったので無事にその上映会は終わった。これなんかも、事件として報道されんといけんやろか? 女性の裸が大写しになるのが、あかんのとセーフの境目なのか?
●何でもかんでも、筋・筋・筋。
良くないことには、罰・罰・罰。
ちょっと何かあったら責任・責任・責任。
こんな世界で育つ子どもはどうなる?
ちょっとのことでも神経質になり、人をゆるす余裕もない大人になるだろう。
だって、今の大人たちの背中を見て育っていくのだから。
失敗したら、罰を受けたり職を辞めたりすることばっかりが責任の取り方じゃない。辞めずに、事を大きくせずに問題に真摯に向き合うのがベターな場合もある。
ひどい犯罪でもないなら当事者が互いに話し合い、一番良い落としどころを見つけていくことこそ、本当の責任の取り方・とらせ方じゃないか。
TVドラマとかでも、何かっていうと会社で『辞表』を提出して「責任を取ります」っていうシーンばっかりだから、皆「責任を取るって、辞めること(罰を受けること)なんだな」って刷り込まれても仕方ないですよ。
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