代弁者が本人になる時

 映画やマンガなどで、よくある話の展開。

 全然考え方の合わない者同士が、何だかんだ言いながら付き合ってコンビを組み続けている内に、お互いの考えが乗り移ったかのように馴染んでいく。で、自分の言ってることが出会った頃の相手のセリフと同じであり、昔は嫌悪していたことを思い出して驚く。まさか、自分がそれを言う日が来るとは!

 あるいは、何か霊的な存在が自分だけには見え、自分だけが意思疎通できる。最初は、まったく気のりしないが通訳というか、その霊の代弁者を務めていくうちに、情が移り感化されていく。最後にはその霊がいなくなってしまっても、まるでその代弁者が霊の人格そのものにでもなったかのように、立派に遺志を継いでいる、ということも起こる。

 前者の例ではマンガの「うしおととら」や刑事ドラマの相棒物、後者の例ではマンガ「ヒカルの碁」などが思い浮かぶ。



 筆者は、賢者テラというペンネームで活動しだして、九年近い歳月が経とうとしている。

 最初は、何だかわけ分かっていない。とにかく頭にメッセージが降りて来るので、日々それを書く。もちろん、スピリチュアルな神秘体験をして後のことだったので、実感として意味が分かる内容がほとんどだったが、それでもまれに「ホンマかいな!」「こんなこと世界中の誰でも見れるネットに書くんかいな!(心配しなくても見てる人は少ない)」と頭を掻きむしりたくなるようなアンビリーバボーな内容もあった。

 多くの人は、本書に書かれているようなことは筆者自身がすでに確信していて、実感のあることだけを書いているように思うのかもしれない。まぁ、その発想はおかしくない。発信とは基本、そういうものだろう。

 でも、この「何かから受け取って発信するチャネリング」というのは、ちと問題が複雑だ。他から聞くのだから、私の個人的な認識や思想信条など無視したようなものも来る。

 そういう時、パイプ役に徹するにはちょっとした勇気が必要になる。薄めずに、言いにくいそれをそのまま言うか? という。

 自我(エゴ)で文意変更や意味合いをマイルド化するのは、やろうと思えばできるのだろうが、私はまだやったことはない。

 その結果、今の私が在る。今後どうなるのかは(そのようなことを貫き続けられるかどうかは)、フタを開けてみないと分からない。



 活動の初期こそ、メッセージの送り主が「エエッ!」「んなアホな!」「こんなこと言わせるのか!?」と叫んでしまうようなとんでもないことを言うヤツ、と思う部分もあって。筆者とメッセージ元とは、決して二人三脚の息の合ったペアとは言い難かった。発信元と代弁者である私の想いとは、一致していない部分が多かった。

 でも、その日その日を発信し続けてきてもう九年も経った今——

 


●メッセージ元の示す方向と、自分の思いがほぼ同じ方向を向くようになった。



 どんな奇抜なメッセージが来ようが、以前抱いたほどの「反発感」や「理不尽感」は減った。ベタな言い方をすると『もう慣れた』ということか。

 筆者はこれまでずっと「代弁者」だったし、それはこれからもきっと同じだろう。でも、ひとつだけ決定的に変わってきた。もうね、慣れ過ぎて私自身がもうその「大元」っぽくなってきた感がある。

 代弁者が、まるで本人みたくなった瞬間である。

 この先、たとえ自己保全の思いから言うことを変えないことで、多数の人の不興を買って私が社会的に葬られても。スピリチュアルでメシを食って行く道を断たれて、フツーに仕事して生きていかなくちゃならなくても……最後まで、このメッセージ元と地獄の果てまで付き合うことにした。

 こうなりゃ乗り掛かった舟だ。



 もしもの話だが、例えば今、これまで来てたメッセージが私に来なくなったとする。もはや内側から、何も湧いてこない。もう、大元がどっか行ったかのような事態になったとしよう。

 でも、私の中にはこれまでの歳月で積み上げてきたものがある。その間、一日たりともスピリチュアルメッセージと真摯に向き合わなかった日はない。たとえ向こうの名前も正体も分からない関係であったとしても。 

 たとえ大元がいなくなっても、今の私はもうその大元そのものであるような感覚もしている。(根源論で厳密なこと言えば実際そうだし!)

 思いは一致しないながらも代弁者を長くやっているうちに、代弁者はその発信元のようになった。師匠から弟子へ、遺志が受け継がれたというような感じだろうか。

 もちろん、今のは仮定の話であって、本当に去られた日には(賢者テラとしてのメッセージができなくなった時には)私がどうなるかなど、いくら今勝手な想像をしたところであまり意味がない。

 そんなもしものことを考えるより、今日も内側の趣くままに語ろう。言葉がまだ湧いてくるうちに。



「内側の趣くまま ってことは、結局自分の書きたいことを書いている、ってだけのことじゃねーのか? というツッコミをもらいそうであるが、これはちょいと説明しづらい。

 自分のものであるはずの自分の内側が、何だか本当の意味では自分のでないかのような感覚もあるのである。そうとしか言いようがない。本当に言葉って、限界があるなぁ!

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る