悪・即・斬

『るろうに剣心』という大人気漫画がある。連載開始はだいぶ昔だが、アニメ化・実写映画化などを長年にわたり小出しに続け、息の長い人気を保っている。

 マンガ原作の映画化はなかなか成功しない、と言われる中、映画化が大当たりした数少ないパターンでもある。主人公の剣心役に佐藤健を据えたことが大成功した。途中ちょっと、原作者が不名誉なことでニュースになったが……

 筆者は、原作が世に出た当時からの、この作品のファンである。マンガも、実写映画もとても気に入っている。(ただアニメは見てない)

 原作、実写を通して一番好きなキャラは、主役の剣心ではなく『斎藤一さいとうはじめ 』である。元・新撰組三番隊組長で、剣心の宿敵&時々味方の役どころ。

 実写映画では、江口洋介が演じている。原作のようなシャープで細っこい感じはなく、少々「丸い」くらいだが、雰囲気は出ている。キャスティングとしては、ギリ及第点かな?



 斎藤一の行動理念は、『悪・即・斬』という言葉で表現される。

「悪人は叩き斬らないと、正義は保てない」という考えである。これは剣心の、「人はもう斬らない」「人は変われる可能性がある」というスタンスとは真っ向から対立する。

 基本相容れない間柄なのだが、双方とも「平和を求める」という点においてお互いの敵が共通し、協力体制を組むことが多い。

 確かに、宗教的な人やスピリチュアル系の人が考えたら、どっちがいいのかは一目瞭然で、そりゃあ剣心の信念のほうが精神的に高いと考えるだろう。斎藤一のほうは正義を目指しているとはいえ、改心するとかチャンスを与えるとか、そんなまだるっこしいことは考えず即潰すわけである。

 まぁ、精神文明のある程度の発達があるところでは「悪・即・斬」は野蛮、ということになるだろう。



 でも、何でだろう?

 私は、何だか斎藤のこの言葉が好きだったりするのだ。潔い、ってのかな。現実的、っていうのかな。

 もちろん、筆者もスピリチュアルの世界に身を置くはしくれ。剣心のスタイルのほうが望ましいと理屈上分かるが、でもあれは「現実的ではない」。剣心が、逆刃刀でもって敵を死なない程度にぶちのめせる、というものすごい腕前があってはじめて「悪を、殺さずに止める」ということができるのだ。マンガだからそんなことのできる人間を登場させられるが、現実的には在り得ない。

 たとえば目の前に、あなたを殺そうとしてくる人物がいるとする。あなたは、おとなしく殺されますか?

 生きたいならば、相手を何とかしなければならない。

 説得も懇願も相手には通じない。相手は、目的を達するまで手を緩めないもの、そう考えてください。あなたは、相手を殺さないだろうか?

 あなたは現実、剣心などのマンガのヒーローのように腕が立つわけではないだろう。こちらを殺すまであきらめない相手を死なない範囲で加減してぶちのめすなんて、そんな余裕はないはず。

 おそらく、一般人のなるケースは「相手を殺してしまう」か「相手に殺されてしまう」かのどちらかである。「相手を殺さないで自分も生きる」ことができるのは、日頃よほど武術鍛錬に特化している者だけであり、社会の現実を考えればそんなことにエネルギーを割くことのできる人物は僅かである。職業的に武道でメシを食っているような人物か、オカネが有り余っているので、人より自由時間がある身で武芸をたしなんでいる人物くらい。

 強くない人物ほど、加減ができない。強くないからこそ全力を出すので、セーブなんて別次元の話。



 もうひとつ。今目の前で、自分の子どもが殺されそうになったら?

 これも、相手には説得や情に訴える手段が通じないと考えてください。目的を達するまで相手はあきらめない、あと周囲には助けがいないと仮定してください。

 相手を攻撃しないで子どもをかばいますか? でも、子どもをかばってあなたが死んだら、その後で子どもを守る者がいなくなりますよ? それでは子どもの死ぬのがちょっと後になるだけですよ?

 守るには、戦うしかない。結局、今した決して気分の良くないたとえ話を通して、筆者は何が言いたかったか?



●目の前で愛する者、守りたい者に危険が迫れば、戦いませんか?



 私なら、おそらく戦う。悟っているとかいないとか、関係ない。そんなものは、こういう状況で意味をなさない。

 この期に及んで「すべて幻想。怒り・恨み・奪われるという視点に惑わされはしない。私は守るためとはいえ戦いを選択しない」と言えますか?

 言えるなら、悟っているかもしれないが、あんたみたいな人はこの世界に要らない。根源にでも、さっさと回帰してくれ。



 スピリチュアルなんてのが流行るのは、とりあえず(表面的に)平和だからだ。

 命の危険が差し迫る状況にない者こそが、その余裕の中で「悪だから攻撃するのは良くない」とか「相手にも命がある。命は地球よりも重い」とかカッコイイことを言っていられる。

「無条件の愛」とかアホなことを言っているのは、今平和だからだ。

 師であるイエスを知らないとは言わない、と豪語したが後に苦しい状況下で知らないと言った弟子のペテロと同じだよ。たいがいのスピリチュアル実践者は。今の状態がずっと続くという勘違いを前提に「本当の愛を知った!」とか勘違いして気分よくいられるのだ。脅かすものがないから、「争わない」とか「すべての命は尊い」と言える。

 マリオが、クリボーの命もクッパの命も大事だから、攻撃しないと誓ったら? もうそれ、ゲーム成立しないよね。



 もちろん、世界がこの先どんどん良くなって、きれいごとでやっていける世界が来る可能性はある。私は今、平和であることにあぐらをかいてやたら美辞麗句のスピリチュアルに酔っている人たちのためにそれを祈ってあげたい。彼らが悲しまなくていいように。

 しかし、この世界は諸行無常の世界。時代の変化は人間のこうしたい、という単純な努力ではどうこうできない。 

 スピリチュアルの主流は、いったんそこで言う本当の平和が確立すると、それが「恒久平和」になりずっと続くなんて思っているかもしれない。でも、この世界は陰陽の波形のサイクルなんですよ~。すべては巡って、また元に戻ってまた始まるんですよ~。常に創造と破壊を繰り返すんですよ~。

 一旦築かれたら、永遠に長持ちする平和など存在しない。ナウシカでも、火の七日間とやらで機械文明が崩壊しまた文明レベルが後退したでしょ? それと同じで精神文明にも後退という現象は可能性としてある。皆、速度は違え進歩する以外ないように思っているみたいだからね。



 筆者が口を酸っぱくしてまで申し上げたいのは、スピリチュアル的きれいごとを言えているのって、「今」という時代の安全の上に成り立っていることに気付け、ということ。

 ゆるす愛だ。すべての命は尊く、どんな理由があれ殺してはならない。暴力はいけない。

 いかなる理由があろうとも戦ってはいけない。他を傷付けてはいけない——。

 これらは、自分が大事な何かを脅かされない立場だから言えているに過ぎない。

 そのことに気付かないで、何か自分が高い存在になったような、清くなったような、もっと言えば「悟った」ような感覚にしてしまう。それは「今限定」でだけ通用するものでしかないが。

 しかし、人は試練に遭った時、そのメッキがはがれる。付け焼刃の真実の愛とやらの正体が馬脚を現す。

 もちろん、レアケースとして「本当に根源の世界に片足突っ込んでいて、今にも次元上昇して行ってしまいそうな人」もいる。そういう人は、本当にきれいごとの行動を取れてしまうが、絶対数が希少なので論じることにあまり意味がない。



 だからイエス・キリストは「試みに遭わせず、悪より救いいだしたまえ」と祈るよう教えた。試みに遭わなければ、悪のターゲットにされなければ、夢を見たままでいられるからだ。気分よくいられるからだ。

 イエスは、本当の自分の弱さを知って苦しむよりも、試練に遭わないで済み、自分の弱さなど知らないで幸せに死ぬ方がいいだろ? と言っているのだ。

 皆さんは、自分の一度きりの人生、究極の二択を迫られたらどっちがいい?



●大して気付きもないが、人生(適度に)うまくいって、家庭も平和で皆健康で楽しく終える。



●病気をし、世の理不尽に苦しめられ、子どもは変質者の快楽殺人の犠牲となり、人について命について真剣に洞察するようになり、結果高い精神性を獲得する人生。


 

 そりゃ、選べと言われたら私は前者を選ぶね。自分も周囲も子どもも元気で、なんとか元気に生きれるなら、悟りなんて要らない。

 多くの人が、ホンネに持っていても言えない、あるいは自覚したくないことを言ってあげよう。



●とっさの、つくろえない反応として出るのは結局『他人の命よりも自分(または自分の愛する者)の命が大事』でしょ?

 脅かされたら、戦うでしょ? 結果、相手を傷付けることになるかもしれないが、とっさの瞬間にそんなこと気にしますか? 子どもに相手が手にした刃物が高スピードで向かっている瞬間に、相手の安全とかケガとかを考えて突き飛ばしますか?

 瞬時に、相手もひとつの命だとか、時が来れば気付きを得て変わる可能性のある命だとか、そんなこと器用に考えられます?



 自分のことを言わなきゃ卑怯になるので、言っておきます。

 筆者は、極限状況ではきっと他人より自分の家族です。他人が同じ目に遭っていても、自分の家族を優先的に守ります。他人が死ぬ方がまだ、自分が妻や子どもを死なせたという思いをもって生き続けるよりも耐えやすいからです。

 他人にも生活があり、大事な人がいる。そんなことは分かっています。けど、私は私で、私に関わるものを優先的に生きるしかないのです。

 そのホンネを責めるのが宗教やスピリチュアルなら、そんなもの要らない。

 


 スピリチュアルは、「人間とはこういうもので、こうなるのはきれいごとであり無理」という考えを決めつけとし、「できないと思うからできない」という理屈で攻めてくる。

 できると信じること。意識がそれを疑わず素直に思えるなら、必ずやその「高い」境地に至れる。すべてを赦す「無条件の愛」へと。

 私は逆に言いたい。「できる」というほうが決めつけではないですか?

 その決めつけのゆえに「できるはずだ」と信じて苦しんで頑張っている人がいる。あるいは、裸の王様の服を「見事なお召し物!」と口で言う民衆のように、「できた気になる」人もいる。両方とも、被害者だ。



 スピリチュアルでいう「高い精神性」からは軽蔑されそうなこの「悪・即・斬」。状況に依っては、それで救われることだってあるのではないか? スピリチュアルが正しいなら『必殺仕事人』なんて絶対にあってはならないドラマだし、これを楽しんで視聴できるなら魂レベルの低い人間、ということになるんだろう。

 なんでもかんでも、理想通りにベストには動かない。その状況の中でのベストを目指そうとする中で、戦い相手を負かすことだってあっていいはずだ。だって、この世界は無限の可能性と変化のパターンが織り込まれたゲームなのだから。

 悪は倒しても、また出てくるという話がある。私も本書の最初の方の記事で「悪とは退治するものではなく抱きしめるもの」ということを言ってきた。今でもその思いは変わっていない。

 でもそれは、あくまでもトータル的な見地において、の話である。急場しのぎでは、とりあえず譲れない大事なものは守るために、悪を倒すこともありだとしたい。この世界には色んなレベルの魂がいるので、高い見地からその一切がまかりならん、なんて可哀想すぎる。

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