正誤にまつわるエトセトラ

 学問の世界。宗教や自己啓発、こういうスピリチュアルの世界。

 少しでも言葉を駆使したり思考が絡んでくるものになら、どうしても割り込んできて考えざるを得なくなる概念がある。それは『正しいか間違いか』である。

 今日は、時としてスピリチュアル実践者を悩ます憎いこやつについて、筆者の思いをつらつら語ってみよう。



 本書ではずっと『究極的には正しい・間違いなどというものはない』と述べてきた。だから「自分のところは正しい」(言い換えれば他は間違い)ということを匂わすスピリチュアルに関して、厳しい目を注いできた。今でも、筆者のその姿勢は崩れていない。

 誤解されやすいかもしれないが、私は何も「自分を正しいとする者を皆手当たり次第に糾弾する」わけではない。意外に思われるだろうが、私は基本的に「自分が正しい」という姿勢自体はOKだと思っている。

 むしろ、良いことではないかとさえ思っているのである!

 たとえば皆さんは、次のようなことを言う人のメッセージを聞きたいと思いますか?



●え~っと、これが合ってるのかどうか自信はないんですけどもぉ。

 多分、私がチャネリングしたところではですね……あ、聞き間違いとか勘違いとかあったらごめんなさいね。何せこれ記録する時めっちゃ眠たかったんで。

 で、どうもこれこれこういうことらしいです。あ、たとえ違うと思っても私を責めないでくださいね。だって最初にちゃんと言いましたよ? 間違ってたらごめんね、って』



 私は逆に、「自分が自信をもって正しいと思えないものを人に薦めるなんて、失礼だ」と思う。だってそうでしょ。あなた自身がホントかいな? と思うものを人様に教えたり語ったりしていたら、こんな無責任なことはない。

 セールスマンの極意にもある。優秀なセールスマン(決してあくどい方面ではなく)は共通して『自分の売り込む商品に自信と誇りをもっている』。

 平たく言えば、「自分でも好きだから売っている」。

 商売だから、仕事だから売っているというだけでなく、自分も個人的に愛用しているからこそ、商品説明も本物の実感からくるもので説得力がある。それと同じで、スピリチュアル発信者自身が自分の伝えているメッセージが大好きで喜んでいるからこそ、その発信は大勢の心をとらえることがあるのだ。



 ここまで書いたら、皆さんは疑問に思うかもしれない。

 じゃあ、なぜ筆者さんは時々(しょっちゅう?)特定のスピリチュアルを批判したりするんですか? 今のお話だと、「自分が惚れ込んでいて自信があって、正しいと胸を張っているのならそれはいいことだ」と言われたのだから。何ら批判しなくていいじゃないですか?

 すべては「違いが大事」「みんな違ってみんないい」なんでしょ? だったら、批判するということはその違いを認めないってことにもなるから、筆者さんのやっていることは矛盾してませんか?

 そういう疑問をお持ちの方がいらっしゃるかもなので、きちんとここで答えておこう。私が批判をするわけは、「違いを認めない」からではない。

 


●『ツメが甘い』ものがキライなのである。



 私は、言っていることが自分の主張と反する、というだけで批判はしない。

 そんなことしてたら、往年のブログ女王のしょこたんみたいに、一日何回も(それこそ五分に一回は)更新しないと追いつかない(笑)。 だから、私がツッコミを入れるターゲットは「同じようなことを言っているスピリチュアルの中でも、特に言葉の選定がいい加減なもの。国語力の低さゆえに誤解を与えやすいもの。何度も吟味・推敲されてないような粗削りなもの」である。

 あと、筆者の書く毎回の記事の文章が長くなる傾向にあるのは、なぜか?(皆さん、ごめんなさい!)

 ひとつのことをはっきり言うに当たって、その逆の可能性、あるいはその例外的な部分はどうか? この言い方で、誤解を与えやすい部分はないか? 別の言葉で言い換えたり、たとえ話を入れたら分かりやすいか?

 少なくとも気軽に言えることではない内容を伝えるからには、精査がいる。点検し、磨く必要がある。

 もちろん、100%の完璧を期すことは不可能だ。でも、可能な限りそれに近付けていく。自分のできる範囲で。

 だから、私は他者の内容そのものに反発するというよりも、伝え方の雑さ、あとは「それを言ってしまうことで苦しむことになる、反対の状態の人」のことまで考えていないものに、腹を立てるのだ。



 例えば、「喜び・ワクワクに生きましょう」というメッセージは、ただそれだけでは暴力である。今喜べていない人、ワクワクしていない人は「じゃあそうできない今の私はダメなんだ」だから必然的に「頑張って喜べる状態を目指そう。ワクワクできるように努力しよう」となる。このように、そのスピリチュアルなメッセージが示す「良い基準」を満たしたくても満たせない状況に置かれた人のことを考えないメッセージは、雑に過ぎる。

 前回の記事でも触れたが、「必要なものは、必要なだけ必要な時に入ってくる。これは真理だから心配しなくてよい」というメッセージは、今ほんとうにひもじくて、生活苦で自殺しようとしている人の胸にどれだけ響くか、ということである。全然、相手の立場に寄り添わないメッセージである。

 このメッセージは、今うまくいっているスピリチュアル実践者が「私は間違っていない」と確認して安心するための材料くらいにしかならない。内輪で「そーだそーだ」と騒げるだけで、実際の苦境にある人を救わない。

 だって、「ない!ない!」と泣いている人に、「あなたがそう思うだけで、実はあるんだよ」 と言うのだから。本当にその人には「ない」のに!

 スピリチュアリストの言う「必要は足りてる」というのは、空手形である。ないけど、「ある」と自己暗示をかけているに過ぎない。自分に言い聞かせているだけ、というのが多くのスピリチュアルの正体である。



 何かを正しいとか真理だとか口にすることが、どれだけものすごいことか分かっていますか? それを人様に向けて言い放つことの責任の重さが分かりますか?

 昨今の「スピリチュアル・ブーム」「覚醒ブーム」で、多くの人にスピリチュアルが広がり、気軽にスピリチュアルな主張をするブログを大勢の人が立ちあげている。

 そういったものが世に広まることは結構なことだが、弊害もある。「真理」だとか「悟った」だとか、本来気軽に使うべきでない言葉をほいほいと、皆大した覚悟もなく言いまくっている。中には本当に「気付いた」人もいるだろうが、便乗犯も多い。それを見分けるのも困難だ。

 何でも、高値のつくものは「レア」だ。希少価値があるから、それは輝く。

 でも、同じものが乱発されたら? いくらでも溢れていたら? 当然その価値は下がる。誰でも分かる理屈だ。

 この現代世界では、「新時代に突入し、スピリチュアルが広まりを見せより身近みぢかになった!」 と喜んでばかりはいられない。

 真理の大安売り、大バーゲンが開かれているのである。それを良いと見るか憂えるかは、自由だ。でも筆者は憂えている。



 スピリチュアルな内容は、今ではプロアマ(?)問わず無数の発信があるので、その趣向のバリエーションの豊富さには事欠かない。

 読み方として、こういう人もいるだろう。

「この先生もあの先生も、ここは同じことを言っている。これだけの数の先生がこう言っているのだから、少なくともこの内容は宇宙の真理なのではないか」

 幾つか、多くに支持されている有名どころがだいたい同じことを言っていたら、それは真理だと推測する。そしてそれはすぐに断定へと昇格するのだが。

 膨大なサンプルから多数抽出された『共通項』を根拠に、普遍的な正しさを導き出そうとする手法で、これは科学や学問が取ってきた姿勢でもある。



 そのように全体を俯瞰し、だいたいのものが同じことを言っている部分にスポットを当て、スピリチュアル全体の包括的なその人なりの「決定版」と言えるものを編み出そうとする。

 多分、多くの人はそういう読み方(学び方)になっていることだろう。だって皆「一番得をしたい。最大の幸福と成功が欲しい」から。人生のエンジン部とも言うべき意識の在り方の部分で、ちょっとでも不具合や部品の配置間違いがあったら、それだけ損だ。ゆえに、その人なりの最もベストなエンジンをもって人生ロードをぶっちぎってグランプリ優勝を目指そうとすれば、必然自分視点は人気の他スピリチュアルをあなたなりに見た「いいとこどりのつぎはぎ」になる。

 筆者は、基本それでもいいと思っている。だからこそ、私は本書でも動画でも「あなたオリジナルのスピリチュアル本を胸の中に持て」と言ってきた。



 でも、筆者はそのような読み方はしない。

 他の何かのメッセージに触れた時、自分とここが同じとか、どこが正しくどこが間違っているだろうか、なんて読み方をしない。それだと、拠り所となるはずの『読んで解釈するための軸』が圧倒的に自分寄りにあり、結果自分視点で他のスピリチュアルを評価しているような読み方になることがある。

 それでどうなるかというと、自分と同じところだけ、読んでもエゴが騒ぎ立てないところだけは「ふんふん、そうだよね」と流し、「ん?」と引っかかる所、エゴが落ち着かない文章(自分の課題だったり、痛いところを突かれる部分だったり、認めたくない部分)になると、工場の機械が欠陥品を自動的にラインから外すように、黙殺する。その人の性格が強気だったら、攻撃的に批判を展開することもある。

 比して筆者はどういう読み方かというと、言葉で伝えるのは難しいのであるが、あえて言うと——



●確かに文章は思考を使って読解して意味をつかんでいるが、とりあえず価値判断はせずに置いておく。

 例えると音楽を「ドドソソララソ」と分析して聴くのではなく、一連の「流れ」として聴く。とりあえず、何も考えずに最後まで内容というよりは「流れ」を味わう。

 その後、頭をボヤッとさせる中で自然に形を取って湧き上がってくるものを観ずる。とやかく言うのは、その後である。



 筆者は、自分の悟りの軸から「あ、これは間違い。これは、なかなか的を射てるな」とか分析する読み方は基本的に最初からはしない。

 私が本書で何かを批判するとしたら、それは最初から分析するような読み方をしたからではない。意味よりも流れで読んで、最後に自分の内側を静観した時に「ザワワ・ザワワ」となったものがあって初めて「ん?」となり、改めてその文章を今度は分析モードで読む。そういう二度手間を、私はしている。



 私は、正しいスピリチュアル・間違ったスピリチュアルなどないと思う。

 的を射た通用する真理、そうでないくだらない理屈、一見そう分けられるようにも見える。圧倒的大多数が同じことを指し示したら、それは真理にも思える。

 でも、私はスピリチュアルをこう捉えている。


 

●発信されたスピメッセージは、その人自身を表しているに過ぎない。



 チャネリングなどは、究極は外の高次元から何か受信したわけではない。

 実は、あなた自身が言いたいことにすぎない。

 それを、「何かから受け取った、そのメッセージを皆さんに伝えます」という回りくどい体裁を取ってるだけ。いわゆる逆輸入、というやつだろうか。

 こっちから行かせといて、そしてそれがまた戻ってくるだけ。その「戻ってくる」復路にだけ焦点を当てたのが「チャネリング」という言い方。実は、その「往路(行き)」 に関して、気付いている人は少ない。

 あなたが、宇宙の王。神。もともとは「すべて」。

 そうでないふりを一時的にはしているが、正体はもっとすごいものだ。

 もともとすべてを内に持っているのだから、無意識に最初から内にあるはずのものを「どこぞの高次元からチャネリングした」ことにあえてすることなど、そう難しいことでもない。

 


 だから、スピリチュアルの内容なんて、学問なんかにはなり得ない。

 科学的な、普遍的共通真理を述べる舞台などではない。

 もはや、図工の時間に描く絵と同じ。作文と同じ。

 学校で描いた絵は教室の後ろに貼りだされる。眺めてみると、同じ題材について描いていても、皆線が違うし色が違うし、視点も切り口も違う。だから、面白い。そしてそういうものは1+1=2で、それ以外は間違いというような評価はでないという性質をもつ。

 スピリチュアルメッセージは結局、その発信者自身なのだ。



 筆者は、他人のメッセージを読む時には、正誤なんか気にしない。

 その人自身の偽らざる『履歴書』であり自己PRであると読む。その人の人生、生き様そのものであるとして読む。

 そうすると、正しい間違いを分析して読むよりも、色々なものが拾える。

 拾えたら、「ありがとう」と思う。でもごくたまに、その「ありがとう」を違和感の方が上回ってしまうケースがある。

 その時だけ、私は批判を試みる。

 だからこの私が何かを分析的に批判するとしたら、それは最終手段に訴えたことになる。皆さんは私が簡単に批判に手を染めている印象があるかもしれないが、私の中ではよっぽどのことなのだ。人間キャラとしての私はもともと気が弱く、できるだけ問題を起こさずに済ませたい平和主義(事なかれ主義って言わないで!)なのだ。



 そこんとこ、夜露死苦。

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