安易に手を出してはいけないもの

 安易に手を出してはいけないもの。

 それは『批判』である。これは、しないで済むならそれが一番よいことである。でも時として「魂がどうしても納得しない、動いてどうしようもない」時がある。

 そのここぞというタイミングで、どうしても必要ならあえて行うものである。批判は、すればいいというものではない。

 どうしてもする必要があるなら、必ず二つのものが必要である。それは「冷静と情熱」である。冷静だけでは、いかに理路整然としていても、相手の心を動かす決め手に欠ける。情熱だけでは、気持ちは伝わってもそこは人間相手だから「相手の思考(認識)が納得できる落としどころ」というものを見つけてあげられないと、人はあなたの批判を認めたがらない。

 人にはどんなに大人しく見える人でも、ささやかながらプライドというものがあるものだから。つまりは、万全を期して慎重に臨むべきものなのが批判なのである。



 私は本書の中身や動画配信などで、何度も何かへの批判をしてきている。

 でもそれは筆者が「批判が趣味」とかいうことではない。どうしても言いたいというごまかせない「思いのエネルギー」と、批判するとはいえ他者の人生の表現について横槍を入れるのだから、綿密な思考による検討。そのふたつを必ず自分の中に確認しており、そうでないと相手に失礼である。

 たいていの人は、いきなり読んでカッカして(反応して)衝動的に批判を書いて(あるいは言って)しまう。そうして書いたり言ったりした文章は、とても恥ずかしいものになる。底が浅い。

 でも、何かの発信に対して粘着するアホウは、その辺の『羞恥心』さえ無くしているようだ。全然恥ずかしいなんて思っちゃいない。

 これではまだ、昔の三人組ユニット『羞恥心』のほうが、恥というものを理解している。それどころか、自分は正しい側にいて「正義を行っている」と思っている。



 筆者が批判をあえてする時は冷静さを保ち、かつ莫大なエネルギーをかけているのに対し、最近見る批判コメントの主はひ弱で淡白である。エッチしたら、ウルトラマンに「三分持たないのか」と言われそうな勢いである。

 知識なし。あっても知ったか。底の浅さが知れる、品性のない文章。

 そもそも、基本的な国語能力さえない文章。

 今日は、ある実際に来たコメントをもとに、批判をいい加減な覚悟やからかい半分でやったら、どんな醜態をさらすことになるかを見ていこう。



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 前回書いた 『優劣をつけてはいけない分野』という記事に寄せられた、あるコメントを紹介しよう。



●筆者さんがしたと言っている覚醒体験は、何段階かあるうちの禅定体験の一つです。また、禅定にはあなたの体験よりもさらに深い体験があります。



 私としては、この言い分自体は悪くはないと思った。

 だって私だって、すべてを知ってるわけではない。所詮は、この二元性世界において自我が認識する範囲のこと。したがって私が分かっていない世界があっても、おかしくはないと思った。



 ただ、問題なのはこの言い方である。

『あなたの体験深い体験がある』。

 この「よりも」という表現の中に、「あなたのそれはまだ浅い」というメッセージがある。

 この人物は、ただ私にその事実だけを指摘して終わることが目的のはずはない。こう言うからには、かなりの確率で私を批判する魂胆があると思った。

 ただ、これだけの文字情報で物事を判断するのは早計だ。そこで私は、ひとつの賭けにでた。

 万が一でも、この人物が本物の禅僧のように、エゴから来る他意なく静かに「私を諭そうとしている」可能性があるかもしれないと前提した。ああ私って、何て相手を敬う人物なのだろう!(笑)

 そこで、私は相手に次のような返信を投げかけた。



●大事なのは、私よりも深いという体験があるかどうかよりも、「さらに深い、と書かれた部分に関してあなたがどういう思いを載せているか」にあると思います。



 もし、相手が「ただの冷やかしではない、気付いた人」だったら、これに対してわざわざ「反応しないだろう」と思った。

 その場合なら、私が「あなたはおそらく、事実を言うだけが目的ではなく、もっと感情的な意味合いもあったのでしょ?」という私の問いかけは的外れとなる。そんな的外れとこれ以上やり取りをすることに、バカバカしさを感じるはずである。

 やっぱり、鋭敏な者には分かる。「コイツとこれ以上しゃべっても仕方がない」 と。コメント主が大物だった場合、この返信で私に興味を失うだろうと推測した。

 もし何か言って来ても、返信ありがとう、まぁ頑張りなさいくらいでいなしてくると思った。大物は、興味を失った相手はとたんに相手にしなくなる。逆に小物は、不利でも無様に噛みついてくる。

 さて、そんな中来た次のコメント。



●お返事ありがとうございます。

 もう一つ指摘させていただきます。

 体験が無いあなたは、覚醒しておられないのだろうと思います。



 ああ~残念! 

 ニセモノだった。ただの冷やかし。

 私が気に入らないだけの、ハンパ者スピリチュアル実践者だと分かった。

 言葉こそ、「お返事ありがとう」「指摘させていただきます」などと冷静な禅僧のような風を装っているが、実態は正反対である。

 お返事どうも、あなたのことがよく分かりました、もう来ませんので失礼しました、だったらまだ見込みがある。しかし、やはり「もうひとつ指摘させてください」ときた。ここで馬脚を現した、と思った。

 


 そもそも、「深い・浅い」って何?

 少なくとも今、この生々しく生きている世界の外の次元の話をしているんですが。それにさ、この世みたく深いとか浅いとかいう概念がそもそもあるの?

 あと、「体験がないあなたは……」ときた。だから、言っておろうが。

『主体と対象が消滅した次元だから、体験じゃない』と。

 体験していない、というのは正確には違う。体験だ、と言ってしまうことのリスクを言っているだけだ。自分という自我が、体験として外のものを認識した(体験)のとは、あくまでも違うよ! そう注釈したかっただけである。

 この人物は、国語能力も低い。それでよく、私に何か言ってきたものである。そのドン・キホーテ並の蛮勇には、敬意を表しよう。 



 もう王手(チェックメイト)だったが、最後のツメを、と思って私はさらに返信した。



●だったら、何でしょう?



 これに返信して来たら、もうこの人物のダメさ加減が推測でなく知れる。

 私は、こう聞いたのだ。あなたの言う通りだったとして、だから私にどうしろと言うのです?

 まさか、あんたは覚醒してない。それだけを言うのが本当に目的の全部?

 あなたが本当に精神ステージの高い人なら、最初から反応しなかったでしょう。つまり、批判コメント自体書かなかったってことです。

 なのにそこをあえてアプローチしてくるからには、目的があるはず。ないなんてことはない。それは嘘だ。

 私に、覚醒者ヅラをするのをやめてほしいのか?(やめてるんだけどね)

 それとも活動自体をやめてほしいのか? まぁそんなところだろう。

 まぁ、少々の羞恥心と判断力が残っていたら、もう返信はないだろうなと思う。これ以上何か言ったら、江戸川コナンか金田一少年に指摘されてまだなお言い訳する真犯人みたいになるから。



 神との対話という本に、こういう趣旨のことが書いてあった。



●事実をただ伝えるのは 『観察』

 だからどうだ、という評価 (価値判断)を付けるのが『批判』



 その流儀で言えば、このコメント主さんは、事実をただ淡々と指摘しただけ、と好意的にスマートに考えることもできなくはない。

 でも、私はこの世界にいる意義、つまり何のために生きているのかのほうを大事にする。ただの事実の指摘がいい、なんて定義は私にはどうでもいい。



●生きるからには、「だからどうだ」の部分って大切じゃない?

 それがないなんて、精神性は高いかもしれないけど「ただの間違えない機械」みたくない?



 私は、泥臭くても矛盾いっぱいでも、何かを私なりに認識し、だからどう感じるという個人の「思い」を、思いっきり出していきたい。

 だから、このコメント主にはこう言いたい。

 どんなに飾ったって、偽れないのよ。どうせバレてるんだからさ、表面上丁寧な言葉じゃなく同じ言うならもっとホンネの部分を言ってほしかったな。

 たとえばテラ嫌い! とか消えて! とか。確かに大人げなくて不利にはなるが、でもまだ正直だ。その正直さを、私は買えたかもしれない。

 ただ、最後の返信で、あなたとこれ以上しゃべっても面白くないと分かった。だから、対話はこれまで。今後何かの形であなたと分かるコメがあっても、興味を失ったので相手にしません。

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