醜さを愛せ

 堺雅人主演のTVドラマ『リーガル・ハイ』を全話見終わったあとで、私は次のような感想を抱いた。



●これは、スピリチュアルが現段階で到達し得る境地の最高峰だ。



 シーズン2の最終回、堺雅人演じる弁護士・古美門研介の言葉。

『醜さを愛せ』 。

 宗教にもスピリチュアルにも、星の数ほど「教え」というものがある。そしてもちろん、そのどれもに価値がある。

 そのことを分かっていつつも、なお言いたい。この「醜さを愛する」ということ以上に実際的価値がある教えを、私は知らない。

 もちろん、今私はあふれ出る思いから、半ば憑かれたように言っているので(それを言うならいつもだが)、私が一番だとか最高峰だとか断じた部分に反応して、色々言ってこないでね。エネルギーのムダ遣いだから。

 ここは、文字を読んで分析・解釈をした上で議論する場ではありません。感じるための場です。言葉は、その補助に過ぎない。



 数多あまたあるスピリチュアルでも、きれいな言葉が並んでいるものは多い。

 平和とか、愛(それも永遠の愛とか無条件の愛とか、そういうたいそうなやつ)とか、ゆるしとか。罪なスピリチュアルは、いきなり最終ゴールをちらつかせる。あたかも、すぐにそこに到達できるかのように。実際には、そこに到達するのには長い道程が必要だということを隠して。

(あるいは、発信者自身もその道程を分かってないで言っているか)

 専門学校に入学したら、二年も勉強せずにすぐに資格が取れますよ~と宣伝するようなもの。実際には、楽でない勉強をし、試験をパスし、本番の資格試験を取り、出席日数を単位を満足させて卒業しないといけない。そのことをちゃんと伝えた上で、最終的に得られるものを提示しないと、詐欺だ。



 私、何かおかしいこと言ってます?

 確かに、「今ここ」を大事にするスピリチュアルでは、「今」幸せだと決めたら大丈夫。「今」問題ないと思えれば大丈夫。そういう「今以外にないんだから、今幸せならすべて幸せである」という理屈がある。

 もちろん、ある切り口では正しい。でも、それを一事が万事使い続けると、「虫退治に殺虫剤ではなくファブリーズを噴きかける」という、ズレた対応のようなことになってしまう。

 スピリチュアルの教えで、どんな時にも万能に使えるものなどない。TPOをわきまえて使わないと、逆に不幸になる。

 今が良ければ全部解決。その理屈は、この二元性世界では絵に描いた餅である。

 


●だって、この世界では「今」に触れられないのだから。



 この世界では、思考も感情も、認識されるまで少々の時間がかかる。

 コンマ1秒差だろうが、過去。

 だから、「今」幸せになったと思いこんでも、1秒後には過去。そう思考する間にもどんどん状況は変わっていき、また新しい状況に対応しないといけなくなる。

 この世界では、常に「幸せになり続ける」しかないのだ。「今しかない」というのは、例え本当でもこの次元世界ではむなしい空論である。

「時間は幻想」というのも、本当だが意味のない空論である。遅刻せずに会社行けよ。時間気にしないと見たいドラマも見れないし、大事なデートもぶち壊すぞ。

 真理なのに、この世界で生きるのに対して役に立たない理屈は数あれど、今回紹介した『醜さを愛する』というのは、私的には本当に大絶賛な言葉だ。

 もっといい言い方があるのかもしれないが、とりあえず思いつかないので、今日はこれでいく。



 イエス・キリストが十字架の最後の場面でできたのが、これじゃないかな。

 生前、イエスはバカな弟子や物分かりの悪い連中に、毒舌を吐いている。

 いっぱい、責めるようなことを言っている。面倒なので、今日はいちいち聖書から引用しない。冷静に聖書を読めば、イエスは無条件の愛どころか、できないヤツやちゃんと生きてないヤツをボロカスに言っている箇所があるのに、クリスチャンたちはイエスが「完全なる神の子」だというメガネを目にくくり付けて外れないようにして見ているので、聖書すべてが素晴らしい言葉に見えるのだ。



 最後、弟子には全部逃げられ。ユダには金で裏切られ、第一弟子のペテロには「あんなヤツ知らない」と他人のフリをされ。

 先日までチヤホヤして、イエスをほめていた群衆が、手のひらを返したかのようにあざ笑う。人間がまだできていなかったイエスは、頑張ってきた自分が何でこんな仕打ちを受けないといけないのか、納得がいかない。だから、神に恨み言を言う。

「神様、なぜ私をお見捨てになったのですか!」

 そこで、イエスに気付きが来た。

 オレ、今何言ったっけ? 神を広める側のトップが、今神を疑ったぞ。

 おお、醜い! 今まで、物わかりの悪いやつに対して「何で分からないんだ?」と思ってきたけど、一番分かってなかったんは自分やったね。自分も、醜い。

 人は、醜い。(もちろん、ある切り口でのことを言っている。普遍的論理の土俵から揚げ足取らないでね)今なら私は、ユダのこともペテロのことも、ピラトもローマも群衆たちも、ゆるせる気がする。

 もう責める気も失せた。だって自分も同じだった、って心底気付いたんだもの。

 私はもうじき死ぬけど、生きているお前たちに幸あれ。醜さを愛する、というこの究極の気付きに、オレのように死ぬ直前ではなく早く気付けたらいいね。祈ってるよ、ガンバ!

 ……そうして、イエスはすべてをゆるしながら死んでいったのだ。

 決して、罪のない清い完全なる神の子としての「上から目線のゆるし」ではなく、泥臭い、同じ人間としての同じ目線での「ゆるし」だったのだ。



 人は皆、大なり小なり「自分の醜さ」というものを自覚しているものである。

 自覚した上で、人が取りやすい行動は——



●その醜さをなんとかしよう、とするアプローチである。

 醜さを無くそう、きれいにしようとする努力である。



 だから、宗教や精神世界が発展してきた。

 祈り。修行。その他、様々なスピ的ワークやセッション、メソッド。

 すべてのことは好きでやっているなら究極問題はないのだが、この「醜さを無くそうと努力する」というのは罠である。

 東京から、飛行機に乗らないでいきなり北海道に着けると言うようなものである。どこでもドア、なんて想像の産物で、この世界にはない。

(頭で考えられる、ということは 、いつかどこかの世界で実在するからできるんだ、という流れを読まないツッコミ屋さんもいるんだろうなぁ)



●醜さをまず愛さずして、解決することはできない。

 醜さを認める内的作業を飛ばして、醜さを無くすなど不可能。



 スピの看板に無条件の愛とか宇宙平和とかやたらチラつかせているスピリチュアルは、その峻厳なる道程、つまりは「醜さを愛する」という壮絶に泥臭い過程があることをぼかしている。

 醜さを問題と見なし(敵視し)、それを「人間本来は光と愛と善」とか言って消していこうとするのは、私としてはオススメできない。人間本来とは、私に言わせれば「善も悪も含む、すべて(の可能性)」だ。

 私は、この「醜さを愛せ」という言葉を思い出すたびに、ヘンな話だが得も言われぬ柔らかな、くつろげるエネルギーに覆われるのである。

 本当に、落ち着く。ああ、このために今生きているんだなぁ、って。

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