トトロいたもん!

 覚醒した! という人によく寄せられる質問がある。



『なるほど、そうだったのか! と思うその揺るぎない(悟りへの)確信は、どこから来るのですか? その根拠は何ですか?』



 体験のない人には、不思議で仕方がない部分であろう。

 実はこれ、覚者(と言われている人)の中でも、勘違いがある。

 どういう勘違いかというと——



●覚醒体験とやらにおいて感じた確信は、普段の生活や体験レベルで普通人が得られるような確信とは、モノが違う。質が違う。レベルが違う。

 覚醒という体験に基づく確信は、上物である。最高級品。



 例えば、行ったことのないラーメン屋があって。

 あのお店のラーメンは、ホンマにうまいんかいな? と疑問だった。でも、ある日いよいよ食べに行くことができた。

 今まさに、そのラーメンが自分の目の前で湯気を立てている。パクッ! と一口。

「うまい! なるほど、こういう味だったんだな!」

 その時の感覚が、その人の中でのこの店のラーメンに関する真実になる。

 日常では、このレベルでも確信と言ったりする。



●私は、あの店のラーメンがうまいということを実際に食べてみて確信した。

 あのラーメンはうまいのだ、と分かった。(ヘンな話、悟った)



 まさか、「自分はあのラーメンをうまいと思ったが、それは自分なりのとらえ方に過ぎず、もしかしたら錯覚なのではなかろうか? 間違っているのは美味しいと思っている自分の方で、本当はまずいのではなかろうか?」なんて悩む人はいないだろう。

 主観だろうが何だろうが、大事なのは「あなたが美味しいと思ったその事実」である。そのラーメンをまずい、という意見の人がいても、それで自分の意見が見当違いか? などとまで考えたら病的である。ただ、「まぁ、このラーメンをまずいと感じる人もいるんだろう」程度の感想しか持たないはず。美味しい、と感じた自分のその感覚を反対意見によって疑うなんてまずしないでしょ?



 実は、スピリチュアルでいう悟りの確信と、あのラーメン屋はうまいレベルの確信は、同じものだ。

 確信は確信であり、上等な確信もレベルの低い確信もない。

 覚者が覚醒に基づく確信を、普通に使う言葉上の確信より上位に認識しているなら、それは覚醒でもなんでもなく「まだまだ青い!」のである。

 でもその覚醒者という人物が、自体験を悪気なくそういったニュアンスで語ってしまうので、世の人は大いに誤解する。

 覚醒体験による確信は、そんじょそこらの確信などとは「格」が違うんでしょうね! そこへいくと私なんて、まだまだその域では……なんて超へりくだる態度になる。私は嫌だが、そのような覚者への「羨望の眼差し」を向けて接してくる人を、筆者は何人も見てきた。

 


 覚醒者は、誰も根拠を示せないはずだ。

 だって、根拠など存在しないから。

 何かを証明するのに根拠が必要だというのは、この二元性世界の理屈である。時間性というもの、物事の論理展開(順番)というもの、原因と結果(のように観察されるもの)が存在する世界だからこその理屈だ。誰にでも納得できる根拠を提示しないと、この世では正式な理論として認めてもらえない。

 そういったものがない、自他の区別すらない無(ワンネス)の世界。あそこもここも自他も、現在過去未来などの時系列も論理も存在しない世界の事を扱うのに、「根拠」を問うとは何事か! もうその時点で、議論は破たんしている。

 悟っているお坊さんに、「くうとは何か?」と尋ねて見よ。

 まずこういう答えが返ってくる。

くうとは何か、と空を対象化した時点でもう質問が成り立たない。空を考えるあなたと、考えられる空という対象が存在することになるので、その時点で唯一なる空の議論はもうできない」

 くうとは? と問うた時点で、自他が存在する前提の二元性属性の話になってしまうからだ。だから、あなたの悟りの根拠はナンデスカ? と問うた時点でアウト。根拠がない、と言えるほうが正解。

 たとえ、あんな体験だったこんな感覚だったと話しても、それはこの世間で認められるようなレベルの根拠とはなり得ない。だから実際に、この手の話は信用問題でしかない。証拠が確固たるものだからというのではなく、この人が言うのだからそうなのだろう(信じよう)となって、覚者が覚者として活動しメシが食えるということになる。



●その確信の根拠はどこから来るのですか?

 そのどこから、を答えることができたら、あなたの覚醒は浅い。

 どこからも来ない。その「どこ」が存在しないからだ。

 思うものは思うのだ、見たものは見たのだ。

 そう思う自分にウソをついたって、しょうがないでしょ?

 


『となりのトトロ』という有名すぎるアニメ映画に、メイちゃんのこういう名セリフがある。



『トトロいたもん。ウソじゃないもん……』



 実は、悟りとはこれと同レベルである。

 だって見たもの。聴いたもの。感じたもの!

 その 「実感したので譲れない部分」を貫き通したいだけのこと。

 その貫きたい『芯の部分』について言ってるのが覚醒者のメッセージである。

 正体としては、メイちゃんのそれ(トトロを見た、という確信)と同レベル。

 ただ、やっぱり覚醒体験に付随する確信は確信の中でも格が違うと思っていると、覚醒にあこがれる人たちがいっそう「すごいものらしい」と勝手にイメージをふくらませてしまう。ハンパなく価値があるもの、という誤解もおまけでつくので、人生で得をしたい皆さんはいっそう欲しいと思ってしまう。

 それでは、飛行石を欲しがる海賊一味、ドーラ一家と大して変わらない。



●覚者とは、自分の確信が格別なものだと思ってしまった思い込みの王者である。

 だから、やたらめったら人の役に立ちたがる。教えたがる。支えたがる。 

 だって、本質の確信に至った自分には、それが出来ると思うから。



 そう、究極の真理「くう」に本当の意味で到達したプレイヤーキャラなどいない。イエスとブッダでさえも。

 彼らについては、我々がちょいと美化しすぎた。実は、我々とそれほどかけ離れた人物ではない。

 歴史上誰も、空の真実など言い当てていない。遊びで、想像し概念をこねくり回す自由があるだけ。遊ぶのは勝手だが、「これぞ本物」とか「これぞ真理」だとか言い出したら、迷惑千万。

 覚者だろうが何だろうが、マリオはマリオ。それ以上ではない。マリオが、ゲーム画面の外のプレイヤーについてベラベラ言えてしまったら、それは詐欺だ。



 覚者で皆言うことが違うのはなぜ?

 それはね、一人ひとりが頼みとする「くうやワンネス(多分勘違いで、実際はその人がチャネリングできる最高位の存在)」 が、皆別物だからである。同じひとつの根なんてとんでもない。発信者がワンネスからのメッセージを真面目に届けているつもりで、実はただの自分の願望の投影だったりすることもある。

 みんな、てんで勝手に悟っただけ。根本とつながった、と思っただけ。

 ただ、覚者のそれは本気度がケタ違いなので、皆はそれを「すごい」「本物だ」と思わされている。



●覚醒から来る確信のすべては、本気度の高すぎる「思い込み」から! 



 だから、覚者は自分の確信が「トトロいたもん!」のメイちゃんと(光栄にも)同レベルだ! ということをわきまえておいたくらいのほうが、地に足が着いてちょうどいいのだ。

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