スピリチュアルはお遊び

 数年前、家族でデパートに買い物に行った時のこと。

 幼稚園年少の上の娘(お姉ちゃん)が、いなくなった。

 動きがすばやく、油断するとあっと言う間に視界から消えるので、結構気を付けてはいた。でも、当時まだ0歳児の赤ちゃんだった弟を連れながらなので、どうしても隙が生じる。

 レジで会計を済ませている間に、娘は消えた。

 奥さんと私は、今いる店をはじめとして、周囲をしらみつぶしに調べていった。が、どこにも娘の姿はない。

 私はちょっとおかしい、と感じた。娘は自分勝手に動き回るくせに、お母さんがいないと分かるとすぐに泣く子だ。しかも、誰に似たのか声がデカい。(きっと、筆者ではないだろう!)

 だから、娘の泣き声がフロアに響き渡ってもおかしくない。しかし、姿が見えないだけでなく、周囲も実に静かなものである。

 10分の捜索も、徒労に終わった。動いているエスカレーターに一人で乗って他の階に移動することは、まだ親がついていないと自主的にはやらないはず。

 そこで私は、いらないことを考えた。



●北朝鮮への拉致?

 もしくは、人身売買のプロ集団が、平日の人気のない百貨店で獲物を探していた?

 一瞬のうちにさらい、(騒ぐなら薬でも嗅がせて)車に押し込んで逃走?



 皆笑うだろうが、マジで心配した。

 奥さんは、インフォメーションセンターに訴えに行った。行き違いがあってはいけないので、私は娘が消えたその階に残った。

 それから10分後、迷子のアナウンスが流れた。服装の特徴も、うちの子にぴったりだ。かくして心配したような展開はなく、娘は発見された。



 なぜ、娘は迷子になっても泣かなかったのか?

 発見、保護され迷子放送が行われるまで、なぜ20分以上もかかったのか?

 その謎は、後で解けた。娘は、デパートのフロアの一番端にあった『ユニクロ』で保護されていた。

 本人がママのいないことに泣く前に、一人で歩いている3歳児を迷子だと判断した店員によって声をかけられていた。そこで、娘の言うことがあまりにも面白いので、何と「話し込んでしまった」。だから、迷子放送をするまでにその分の時間がかかった、というわけだ。

 だから、本人は泣いてすらおらず、あっけらかんとしたものである。こちらは、寿命が縮まるような思いをしたというのに!



●人生で、本当に大変なことが起こった時。

 受け止めきれないほどの悲劇が襲った時。

 学んだスピリチュアルなんて消えて吹っ飛ぶ。

 あなたを何も支えない。 

 起こることが最善? すべてが感謝?

 必ず、どんな出来事にも何かしらの前向きな意味がある?

 バカバカしい。



 例えば、あなたが朝から何かのスピリチュアルの講演会に行ってきたとする。

 ああ、素晴らしい話を聞けた。世界は愛。神(サムシング・グレート)は、愛。

 生きれる、ってことは感謝だなぁ!

 そんなことを思いながら午後帰ってきたあなたにもたらされたニュース。

「あなたのお子さんが、事故で亡くなりました」

 さて、その時に午前中に聴いたありがたいスピリチュアル講話は、支えになるでしょうか?

 ならねぇな。



 スピリチュアルは、お遊びである。

 人生で究極に辛いことがまだ起こっていない、という状況にある『幸運セレブ』のお遊びである。

 スピリチュアルの内容は、そこそこのレベルの問題や苦難に対処できるツールであるが、ボスクラスの苦痛の前にはほぼ無力であるということを、わきまえておいたほうがいい。そう思うのである。



 よく、筆者は質問される。

 あなたは覚醒者として、例えばお子さんが亡くなったとしても「すべては最善。すべては中立」という観点から、やはりすぐ立ち直られるのですか?

 その質問への答えは——



●その時になってみないと、分からない。



 大丈夫ですとか、ハッキリ言えてしまってはおかしい。

 私は確かに、宇宙と自分はひとつで、この世界で何が起こってもそれも含めて自分であり、何の問題でもない……すべては根源的に『無(くう)』である、ということを一瞬体験した。

 その感覚からは、「主人公は自分なので、いくら愛おしくとも幻想上の登場人物のせいで自分の生きる幸せが奪われるのは何かがおかしい」ということに、遅かれ早かれ戻ってくるので、まぁ時間が経てば軌道修正できるだろうな、という予測はある。

 でも、予測は予測にすぎない。今ここでないことをいくら考えても、そこに何の意味もない。

 ただ、これは言える。私は覚者である以前に、人間であり人の親である。

 中立とかいう悟りの観点を捨てて、嘆き悲しむだろうと思う。そこで、すべて幻想(マーヤー)を見切っているので、動揺しないなんて覚者が仮にいたら……

 そんなヤツに生きてる価値なんてないと思う。

 執着して悲しんでこそ、人である。



 色々なスピリチュアルブログで述べられているようなこと。そこにつくコメント類。申し訳ないが、大きな問題が降りかかっていない幸運に恵まれた人たちのお遊びだなぁと思う。いやぁ、日本は今日も平和だなぁ(この人たちにとって)、と思う。

 もちろん、ものすごく大変なことが降りかかっても、見事高い精神性で超える人はいるだろう。でもそれは、そういう役割・そういうシナリオの人だったというだけだ。多くの人は、その強さを持てるシナリオではないので、あまり努力によって目指せると思わないほうがいい。



 皆さんは、スピリチュアルセミナーやワークショップに参加しようとする時、当然何かの成果を得よう、と思うだろう。参加することで、聴く前の自分に何かがプラスアルファされるようなイメージを持つだろう。

 しかし——



●あなたがスピリチュアルを学ぶことそれ自体が、あなたに何かを得させるということはない。



 例え得た感じがしても、それは平時(人生で大きな波乱のない状態)にのみ通用するという、しょぼい武器に過ぎない。おもちゃの鉄砲のようなもの。本物の脅威には、無力。

 すべてに感謝とかすべてが愛とか、幸運セレブのお遊びである。

 じゃあ、スピリチュアルを学ぶ意味って、あるの?

 ある。



●スピリチュアルとは、あなたをギリギリのところで救う命綱である。



 人生で大波が襲ってきたら、あなたにできることは大してない。

 呑みこまれ、打撃を受けるだろう。傷付き、悲しむだろう。

 その瞬間は、スピリチュアルで学んだきれいごと論理など思い出せないだろう。思い出せたとしても、それが効果を発揮することはほぼないだろう。

 


 ただ、ひとしきり嘆き悲しんだら。一定量苦しみぬいたなら——

 そこでやっと、自分が宇宙の王であり主人公であり、自分の人生は自分のものだと思い出す。外部の幻想のゆえに、いつまでも自分の幸せが毒されていることの不自然さに気付く。もちろんすぐにではないが、徐々に立ち上がれる。

 つまりスピリチュアルとは、あなたがどんどこ幸せになるための積極的な武器ではなく、あなたをギリギリのところで救う「最後の命綱」なのだ。

 苦しみは避けられないが、苦しみの果てに本質を見せてくれる。苦しみの瞬間には無力だが、落ち着いたあとで使えるようになる武器となる。



 芥川龍之介の短編小説『杜子春』で、杜子春はしゃべるなと言われていたのに「お母さん」と叫んだ。それは、身もふたもないことを言えば執着であり、完全中立には立ちきれない人間の悲しい性(さが)である。

 でも、それこそが人間らしさであり、それこそが生きるということである。だから、思いの世界において何か頑張ろうとしなくていい。何か意図的に操作しようとしなくていい。



●思いのままに。

 感情の流れる道筋のままに。

 自然に。そしてそれを誇りとして。



 スピリチュアルは、小手先の技術で物事にうまく対処するためのテクではない。

 ましてや『開運』とか『お金が儲かる』とか『いいことが起こる』とかとんでもない。人生で一番つらい時、その辛さを味わったのちに最後に残る友であり、最後の砦。スピリチュアルの価値は、平時よりもそういう時にこそ分かる。

 ただ自動車保険のようなもので、事故がないなら保険金を払い続けて終わる。

 これは人間的に言うのであるが、皆さんのこの人生での旅において、できるだけ大きすぎる悲しみが襲いませんように……

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