おもしろき こともなき世を おもしろく

 今回の話題は、『違和感』についてである。



 筆者に寄せられる「好意的でない」コメントの中に、私の書くことに「違和感」を感じる、という内容のものがあった。

 あと、もう一言添えられていまして。どんだけ自分一番やねん? というニュアンスの言葉でしめくくられていた。

 要するに、自分が一番正しいのか? ということだろう。説明するのも疲れるのだが、私は自分が言っていることを正しいと思ったことはないし、他が間違っていると思ったこともない。

 この世界に、何一つ正しいことなどないと確信しているから。逆に、何一つ間違ったことはないとも確信しているから。

 ゆえに、筆者が本書で何かに対して「批判的になっている」ような書き方をしているように見られたら、それは私が趣味として好き嫌いで嫌っているのであって、決して間違っているからという理由ではない。

 逆に、コメントされた方にお言葉を返したい。



●あなたこそ、自分一番で生きてないの?

 まぁ、おいたわしや……



 自分一番で生きる以外の生き方って、できるものなのか?

 究極的な意味では、自分一番で生きる以外の生き方はできない。そこが分かっている人の方が、分かっていなくて「ちゃんと世のため人のために生きている」という次元にお住まいの方よりも幸せ度は高い。



 違和感、という言葉を辞書で引いたらこうある。



『しっくりしない感じ。また、ちぐはぐに思われること』(大辞泉)



 う~ん、そりゃそうだろうけど、今ひとつ説明しきってない感じ。

 では、「ちぐはぐ」を引いてみよう。



『対になるべきものがそろっていないこと。

 物事がくいちがって調和がとれないこと』(大辞林)



 つまり、まず前提になるべき判断基準(定規)がその人の中にある。

「これは、こういうもの」

「こういう時は、こうするもの」

「これは、正しいと感じるべきもの」 

「これは、間違っていると感じるべきもの」

 その前提を持った状態で、何かに接した時。その何かが、あなたの規格(定規)に合わなかった時。観察対象と、自分の「こうあるべき」という基準との間にズレというか、隙間が生じる。

 そのズレのひどさ加減によって、軽いものでは顔をしかめる程度。きついものになると、ひと言言ってやらないと気が済まない「批判」というものに発展する。



 コメントされた方は、筆者の事を「どんだけオレ様主義なのか」と言ったが、私からしたら、あんたこそどんだけ自分完璧主義やねん! と思う。

 違和感を感じるためには、比較という行為が必要になる。比較作業をする上での、その人物なりの「正しさの絶対基準」がないと、違和感を感じるということが成立しない。ということはですよ、ここが一番大事なことなのだが——



●あなた、そんなに自分の基準に絶対の自信をもってるの?



 持ってるから、人に言うんだろうね。

 皆さんは、自分の判断基準がいかに脆弱かを分かってないで、何かを価値判断する。しょせん、たかだか数十年の幻想人生の中で見聞きして来た情報の集大成でしょ? たまたま、宇宙シナリオ的に身近に出会った賢人やスピリチュアル的教えの受け売りでしょ?

 はっきり言ってあげると、あなたは真実を見極めて今の信条なり確信にいるのではない。

 


●あなたが生まれて、生きているそばにたまたまあったものを採用したのだ。



 あなたの真実を見極める目が冴えていて、それにたどり着いたのではない。

 宇宙の脚本として、そう書いてあったに過ぎない。もっとイヤな言葉を使うと、あなたの信念の根拠はある程度『多数決』である。

 じゃあ、そんなこと言ったら筆者さんはどうなんですか? というブーメランツッコミが返ってきそうだ。だが言わせてもらえば、筆者は常日頃から「自分の言うことは正しいから言っているのではなく、好きなように言っているだけだ」とちゃんと宣言している。

 私は、自分のメッセージ発信における主張を正しさの定規としてそれを基準に世界を裁き、「賢者テラ教」なるものを広めて世界に自分の考え方を納得させよう、なんてヒッグス粒子ほどにも思っていない。

 言わば、本書などは「趣味のお部屋」。一般の方が気ままに書いてるブログと、そう変わらない。

 筆者は、自分で言うのも何だが「そこを明言しているだけでもエライ」と思う。だって、他のスピリチュアルって声には出さないけど、懐の深いようなフリをしているけど、自分の発信していることに正しさがあり、真実であるとどこかで思っているもん。だって、正しさに自信がなけりゃ、本を出したり講演活動をしまくったりしないでしょ?

 私がそれをするのは、多少意味合いが違う。楽しいからする。ただ言いたいことを言うために、本書のような著作物を書く。動画配信をする。

 皆さんの救いとか世界平和とか、どうでもいい。そんなものは、「今に在る」ことが楽しめたら結果として自然についてくるものであって、最初から弓道の的みたいに「見据えて、フォーカスして力む」ものではない。



 ここまで、違和感は悪者のように言ってきたが——

 


●違和感は、素敵なものである。



 そもそも、完全な世界から我々はやって来た。当然、そこは違和感など存在しない世界である。だからこそ、「違い」を楽しみに来た。

 以前、エゴはなくそうとするものではなく「刃物」と同じで使いようだ、という記事を書いた。下手な使い方をすれば怪我をするが、熟練した手で使えばおいしい料理を作って振舞い、人を幸せにできる。

 違和感というものも、それと同じ。方向性さえ「楽しい方」に用いれば、違和感を味わうことは陽的エネルギーになる。

 でも、今回筆者にコメントした人のように、違和感を自分の物差しと一致しない気持ち悪さとしてネガティブな方向に使うと、幸せ感からは遠ざかる。

 面白いことにこの世では、批判されている人よりしている人の方が不幸になる、という現象が観察される。あなたが外界の何かを思いっきり蹴ると、それは鉄の壁を蹴っているのと同じ。幻想にはダメージを与えることはできず、あなたの宇宙で唯一存在する「あなた自身」だけが跳ね返ってきたダメージを浴びる。



 私からのオススメは、違和感は違和感として、ただ楽しむこと。確信犯的に感じたあとは、定規を捨てて改めて対象を見る作業をしてから、ごちそうさま。

 ガムを噛んだら、包み紙に捨ててクズかごへ! という宣伝みたいだが……

 違和感は、批判するために使うよりも、その違和感を感じさせるものはおかしいと考えるよりも、世を彩るバリエーションと考え楽しむ方向に使ったほうがいい。

 世のメジャーなスピリチュアル(ジャンル的に証明できない内容がほとんどのため、正しさは多数決的)が頭に入っていて私の主張を比べ、違和感を感じたのなら、どうか私の事は放っておいてほしい。

 


●そのメジャーが好きでない人もいることを、知っておきなさい。

 彼らのためにも、私という選択肢はあるのだ。



 巨人や阪神が好きな野球ファンばかりではないのだ。

 この二元性世界が存在する限り、ある基準からの違和感を全ての人から消し去ることなど不可能。

 筆者のこの物言いは、コメ主に好かれなくとも死ぬまで需要があると思っている。

 もちろん、どれかを採用して他は違う、ということでなく色々なスピリチュアルの「いいとこどり」をしてもいいのは言うまでもない。現に、他のスピリチュアルも大好きで私も面白いと思って見てくれている人が大多数だろう。

 私しか読んでいない! という人は……ちょっと心配である(笑)。



「おもしろき こともなき世を おもしろく」



 高杉晋作の辞世の句と言われる。

 この世界に、すべてに意味はない。その真っ白な白紙(面白さのない状態)に、我々人間キャラという絵描き、すなわち芸術家が思い思いの絵を描き、色を塗る。そうして初めて、味のある『面白い』ものができる。

 そして、先ほどの句の後には、こう続く。



「すみなすものは 心なりけり」



 後の句は別人が作ったものらしいが、解釈としては——

「この世を面白いと感じるか、面白くないと感じるかは、心の持ち方次第である」

 つまり視点が大事、とも言えるだろう。

 せっかく我々には「価値判断」という楽しいおもちゃが与えられているのだ。これを、楽しく使わない手はない。

 ただ、私から見ると多くの人が「楽しくない方向に」この能力を使い、自業自得にも嫌な気分になってる。だから、使い方次第なんだから、うまく使おうよ。

 違和感をあえて楽しんでみよう。この愚かしくも、素晴らしい世界で。



 ビバ! 違和感。

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