誰のせいでもありゃしない

 私たちは、よく『何かのせい』にする。

 世の中のせい。社会のせい。

 台風のせい。雨のせい。

 田中さんのせい。上司のせい。母ちゃんのせい。

 とにかく、自分以外の何かに原因があって、自分の思い通りにいかないことを嘆く。今日は、そういう方々の耳に痛いことを言う。



●あなたの外の何かのせい、であることは絶対にない。

 外は、何も悪くない。



 魂の旅の脚本によっては、この言葉を受け入れがたい人もいるのは承知している。

 事故で子どもや愛する人を失った方々。今、何らかの苦しい状況におられる方。

 何かのせいにするな、というのはにわかには受け入れがいたのは当然である。だから、私が今日言うことは万民向けではない。

 聞き入れたい者だけが、聞けばよい。それぞれにスピリチュアル年齢に合ったものを相手にすればいい。



 外に悪いものはない、と言った時にこう連想してしまうだろう。じゃあ、全部自分なんだ、と。

 スピリチュアル的には、「意識」がすべてを生みだしているらしい。だとしたら、外に見える理不尽や悲惨は、究極には私自身に責任があるということに……?

 そう考えて、どんよりした気分になる方もいるだろう。自分のせいだと考えると気が重いし、だからといってじゃあどうすればいいのか? という明確かつ具体的方法がない状況では、いら立ちしか生まれない。



●外は何も悪くない。

 だからといって、自分のせいだという論理にならなくてよい。

「宇宙は、ただそうであるだけ」だと思うこと。

 外のせいでもなく、自分のせいでもない、と思うこと。



 そう、誰のせいでもありゃしない、のである。

 例えば、「レ・ミゼラブル」という映画がある。あの物語の中で、ジャンバルジャンもコゼットもコゼットの母親も、たいへん辛い目に遭う。

 じゃあ、それは一体誰のせい?



●作者のせい。

 ビクトル・ユーゴーのせい!(笑)



 神の立場で物語を書いたのは、著者である彼である。

 それと同じで、二元性ゲーム世界を生きる私たちは、いわば「書かれた小説の中の登場人物」。

 私たちは一面的な現象だけを見て、自由意思において相手がとんでもない選択をしたせいで、自分が割を食った(ひどい目に遭った)と思うだろうが——



●すべて、筋書き通りに進んでいる。

 どんな選択をしたとしても、それすら想定内に入っており、宇宙は問題なく進む。



 あなたがしなかった選択は、パラレル・ワールドを使ってでも消化される。

 あなたがしてしまった選択は、他でされることはない。そうして宇宙の営みは、時間という幻想の中で粛々と進行していく。

 善悪もなく。光も闇も同価値として。無情に。淡々と。

 それに物足りなさを感じた第二の神(人間)が、「愛」を創造した。その情的エネルギーが、本来「ただそうであるだけ」だったこの世界に潤いを与えた。

 ただ、潤いと同時に「苦」も備わった。ドラマを紡ぐ以上、変化という冒険世界で遊ぶには、背負うのを避けられないリスクである。

 だから、それをどう「視点の持ち方」を使いこなすことで、楽しくやっていくかが問われる。それが、この世ゲームでの腕の見せ所なのだ。

 究極には、すべてプレイヤー意識(神意識)のせい。でもそれらだって、実は私自身。そこまで考えたら、もう思考は堂々巡りのメリーゴーラウンドになる。

 下手な考え休むに似たり。こんなもの、しないほうがよい。

 もっと単純に考えよう。



●何のせいか考えたところで、答えなどない。

 仮に出たとして、それであなたは幸せになるのか?

 何かのせいにして、責めることであなたは幸せになるのか?

 相手が泣いて、苦しんで、あなたの納得いくレベルまで味わったら許すのか?

 それとも、あなたが受けた損害に相当するものを返してもらえば気が済むのか?

 覆水盆に返らず。だからそこに思い至ったあなたは、すべてでただそうであっただけ、という境地に至る。

 それがいつかは、知らない。早いのか、遅いのかも謎。ただ分かるのは今だけなので、今をどう生きるか・何を選択るかしかすることがない。



 イエス・キリストという人物は、「何かのせいにしない」ことにかけては最高レベルに達した人である。マスターである彼は、無実の罪により当時もっとも不名誉な「十字架刑」で殺された。

 弟子に裏切られ、逃げられ、誰も味方は残らず——

 ただ、ひとり死にゆくのみとなった。

 イエスは何人もの人間の人生を支えた。死人すら甦らせた。病気も癒した。

 でも、今最後を迎えるにあたっては誰もいない。十字架に釘打たれ、死までのカウントダウンが始まる。

 皆、はやし立ててこうバカにする。

「おーい神の子イエスよ~。お前、すっげぇ奇跡起こせるんだって? じゃあさ、そこから奇跡の力でも何でも使って降りてきなよ。そうしたら、お前が神の子だって信じてやるからさ~」

 この言われようである。普通なら、神を呪い、運命を呪い、自分を殺そうとする人々を呪ってもおかしくない。

 こんな道を行かせる、神のせい。分からず屋の、愚民のせい。ともかく普通なら何かのせいにして怒りを吐き出さずにはいられない状況である。

 さすがのイエスも、ちょっとしんどかったのだろう。

「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか?」

 そう言ったとか言わなかったとか。でも、やがて彼は驚くべき言葉を口にした。イエスの最後の、意識的選択がコレ。



●神はん、こいつら許したってな。

 自分で何しとんのか、分かってへんのですわ。

 何も悪うおまへん。



 なぜか関西弁になってしまったので、以下に修正。

『父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか、分からずにいるのです。』

 そう。ほとんどは、人間キャラのエゴ視点でどっぷりの人々。

(でも、それすらただそうであるだけで、演劇上の役割で良し悪しはない)

 イエスは、最後の最後、すべてをゆるした。

 この「ゆるす」という言葉は実は曲者で、何か「ゆるされるべき」良くない状態が存在する、という前提を含んでいる。

 ゆえに、聖書には「おゆるしください」と書いてあるが実際は、覚者イエスはそんなこと言わなかったのではないか。だって、覚者として「ゆるす」べきものがあるという概念すら、ないのだから。

「ただ、あるがままを受け入れます」と言ったのではないか? むしろ、最後の瞬間は愉快だったのではないだろうか。

 まさに、すごい感情体験をコレクションできた。すべて、問題のないことが実感的に分かった。

「永遠のゼロ」という映画の主人公、岡田准一演じる宮部久蔵の最後のように、悲惨な最期の瞬間でも「ニヤリ」としたかもしれない。



●ゆるすことなどできない。

 ゆるされるべきことが存在しないから。

 ゆるされることもできない。

 他者などいないから。

 外部の何かからゆるされることなど幻想だから。

 自分が自分をゆるすしかない。

 ゆるすという行為自体幻想だから、結局は自分があるがままの自分を、世界を受け入れるということになる。

 宇宙はただそうであるだけ、という事実に降参するだけのこと。

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