地獄のサーターもアンダギー次第

 スピリチュアルな発信活動を始めてから、多くの人に関わってきた。色々な人を見てきて思ったが、「何かのために」頑張っている人が多い。

 あるものを得るために。している努力と引き換えに。人はずっとそういう生き方を強いられてきたし、そんな社会だから仕方がない。

 お金を払って、同価値のものと交換という習慣が身についているから。

 だから、相応の代価を払う努力をする者、または払う能力がある者が、偉い。逆に同じだけの代価を払う努力をしない者、あるいは払う力のない者は弱者。

 時に後者は「怠け者」という嫌な言葉で言われてしまうこともある。



 筆者には、この「何かのために、何かをする」ということがない。

 人様から見て、現象的に(結果として)そう見られてしまう行動はあるだろう。でも、本人自覚においてそれは「ない」 。

 


●私は皆さんのために生きていなし、働いていない。

 生活のために、お金を増やすために働いていない。

 名声のために働いたり、それを保つ努力はしていない。

 ただ、今この瞬間したいことをしているだけ。そしてそれこそが、宇宙の最善と認識しているだけ。その「今」が積もり積もっていく流れの中で、いつの間にか豊かになる。(その豊かさは物質的なことのみを指さない)

 結果として、うまくいっている。



 おおざっぱに言うと、「狙わない」ということになる。

 宗方コーチには申し訳ないが、エースは狙わない。

 テニスで言うと、今ここの白球を追う瞬間を一期一会とし、心して味わうこと。そこに全意識が乗り出し、もはや勝ち負けや損得という次元にとどまっていない。

 思考さんは、ヒマを出されている状態。「勝つ」という目標に向かって、精一杯の努力をするという感覚じゃない。

 仮にそれで勝っても、波動の低い「勝ち」。中途半端に成功するかもしれないが、選手として一流にはまずならない。

 一流は、プレッシャー以上に「楽しんでいる」。楽しんでいるのは、勝ち負けや収入を心配するエゴ(あるいは思考)さんではなく、後先考えず無謀だがお熱い「ハートさん」のほうである。



 このことからひとつ言えること。

「幸せって、ナンデスカ?」

「どうやったら、得られますか?」

 そんな質問が来ることがあるが、これは一言では言いにくい。言いにくいが、あえて簡潔にヒントを出すと——



①狙わない。

②目標を立てない。目指さない。

③目標から逆算して努力をしない。

④幸せはつかむものではない。

⑤今この瞬間限定の選択を大事にし続けること。

⑥たったそれだけのことで、いつのまにか自然にあるのが本当の幸せ。



 一般の自己啓発や常識と私が違うところは、具体的目標をつくらないこと。

 これ、常識からしたらムチャクチャやね……

 私は、目標や願望を紙に書いたり自分に言い聞かせたり (アファーメーション) もしない。

 別に、成功願望がないわけではない。でも、宇宙を信頼している。だから、それに関して何もしない。

 あえて目標を紙に書き出したり、アファーメーション(宣言)したりするのは、奥底の心理として「それくらいしないと起こらないのでは」という心配や恐怖があることが多い。

 もっとつっこむと、代価(努力)を支払わないで得るなど、ムシが良すぎるのでは? という等価交換の概念が染みついていることからくる無意識の不安も手伝ったりする。

 だから、恐怖が動機でないという確信があるなら、楽しみ方のひとつとして目標を定めたり(ゲーム感覚で)、言葉にしてみたりするのもよい。ただ、そこに深刻さが生じたら、危険信号である。深刻と真剣は違う。

 上記の③に関する補足をすると、私がよくないと言っているのは



●まず何も達成しない先から大きな目標があって、そこまでの緻密なロードマップを逆算してつくり、義務的に潰していこうとするイメージの『目標先行型』

 

●特徴:楽しさや情熱よりも義務感・使命感が先行している。また本人をして頑張らせるのは最終目標である「成果」という幻想上のエサである。それを得られるとおもうからこそ頑張れるのである。達成できないなら今の「過程」になど意味がない。



 これのことであり、似ているが全く違う下記のものを奨励するものである。



●今ここの取り組みが楽しくて「次はこうしたらいいんじゃないかな? っていうか、したい!」というインスピレーションが無理なく出てくるので、それらを次々と実行し積み重ねていくうちに気が付いたら目標を達成していた、という『積み上げ型』


●特徴:まったく頭を使わない(論理的思考による計画構築をしない)わけではないが、比率において楽しさや情熱のほうがはるかに勝っている。また本人を動かす原動力は最終的な「目標達成という獲物」というよりも「それに向かっている今」が幸せで、目下それで十分でさえある。



 人は宇宙の流れを信頼していないから、エゴできばる。

 エゴできばると、何だか自分が怠けていないような、皆に劣らず頑張っているような感じがする。妙な安心感が生まれ「私って頑張ってるじゃん?」っていう自然でない、いびつな自己肯定感が生じる。

 もちろん、ここで生じる自己肯定感は健全なものではない。

 自己肯定とは、条件によらずありのままを受容することである。でもこの場合は「他者との比較」「努力量 (仕事量) における相対的比較」の上に成り立つ自己肯定感なので、これを持ち続けるためには努力し続けなければならない。

 手を休めたが最後、自己肯定感をつなぎ止めておれなくなる。つなぎ止めなければ離れていく自己肯定感なぞ、ニセモノである。



 あの世での幸せのために、いいこと(善行)をしようと心がける人がいる。徳を積んで、いい霊界に行こうとか。

 スピリチュアルの世界には「カルマ」という概念もある。もちろん間違いではないが、「それを解消するため」に生きようとする人がいるのは気になるところだ。

 好きなことをして、楽しめばいいのに。自分の人生なんだから。

 カルマ解消という利益のために、それと引き換えになる行為を差し出す。こんなところにも、等価交換(条件付き愛・取り引き)ははびこっている。



 地獄の沙汰も金次第、とはよく言ったものだ。

 この世界は、目に見えるこの世も死後のあの世も、等価交換で縛られているよ、と暗に言っているようなことわざである。

 ちなみに、私にとって「あの世」とは自他の区別のないワンネス(一元性の世界)である。死んで行く所など、「あの世」とあえて区別するような特別な世界ではない。そこも、人間の意識創造の延長上でしかない。

 筆者にしたら、「あの世」と呼んで特に現世で気を付けなければならないこともない。だから、分類する意味もない。



 いつも、世間のことわざをひっくり返す筆者だが。今回は、ひっくり返すのではなく「無意味化」してみよう。だって、本当に意味がないんだもん。地獄の沙汰にお金なんて。

 そこで、茶化してこれからはこう言おう。



●地獄のサーターもアンダギー次第♪



 ああ、沖縄の男性歌手ユニットのことではなくて……美味しい沖縄発のお菓子のことね。もうね、それくらいどうでもいいって話よ。条件付き努力とか、等価交換とかね。

 私のしている日々の執筆活動や動画配信は、人から見たら努力に見えるかもしれない。でも、苦痛はないんだな。いわゆる「我慢賃」としてお金もらってるわけではゼンゼンない。

 楽しいから、やってるだけ。で、気が付いたらそれが収入に繋がっている。

 それを自然にありがとう、って思うだけ。



 筆者が皆さんにすすめるのは、幸せになるために努力をしないことである。

 幸せは「目指す状態」のことを指すのではなく、「自分が選択する意識の在り方」 のこと。それがあるから、それは似た波動の現象や物質、人をを引き寄せる。

 もちろん、強制ではないし、これをしないからあなたはダメとかいうことはない。

(かつて某細●数●さんは、言うことを聞かないと「地獄に落ちるわよ!」とのたまわれたが)

 この世界で唯一真理と呼んでもいい言葉は、「自由」である。だからあなたは自己責任において、自分が味わいたい心の在り方を選択すればいい。

 その毎瞬毎瞬の積み重ねで、あなたのシナリオは自然に固まっていく。ただ自由とはいえ、この世界はやはりスコア出してなんぼのゲームにも似ているので、だからこうすればいいよということを言うのであって、推奨ではあるが強制ではない。

 


 どんな選択をしたって、宇宙はすべての体験をコレクションしようとしているので、あなたが「究極の最善(上位次元の視点からの)」と呼ばれるものから逃れられることはない。 

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