聖なる二分法
とある、スピリチュアルな情報を発信しているブログを読んでいた時の話。
記事には、読者からのコメントが付くような仕様になっていた。
その中で「私がさっき書いたコメントが見当たらないんですが、削除されましたか? 都合の悪いことを書かれたら逃げるんですか?」と書かれたものがあった。
たぶんそのコメ主は、先ほどそのブログ記事に「批判的な」コメントでも残したのだろう。」
要するに、他ジャンルのブログならいざ知らず、スピリチュアルな内容を発信しているのだから「そういう人物は、批判されても無視せず真正面から向き合う程度の人格は備えているべき」とでも考えているのだろう。
私はその時「ああ、まだ人類にはこの古い体質が残っていたんだなぁ」と思った。別に、良い悪いではない。
ただ、どんなに外側が正しく見えても、「つまらないだろうなぁ」 と思う。
この世界のすべては、波動(振動数)で成り立っている。人は何かひとつの基準を打ち立てて、世界のすべてを「白か黒か」で切り分けてしまいやすいが、その作業をしている時の人の波動は低い。
こういう「二分法」に、人類はずいぶん毒されてきた。
なかなか辛い宇宙ゲーム展開を、強いられてきたのである。
今のお話の場合。
コメント主の頭の中は——
●批判をきちんと受け止め、反省材料にして前に進むのが良い人。
批判にきちんと向き合わず、無視して都合よく「逃げる」人が悪い人。
そういう、コチコチカッチンお時計さんの、分かりやすすぎる思考構造があるのだ。相手にどんな事情、どんな思いがあってそうしているのか、まで考える頭はない。(コメ主本人は自分を、少なくとも批判から逃げる程度の人間よりは賢いと思っているようだが)
まぁ、そんな処理機構が完成されていたら、生きるの楽ですわな。ただ、楽であることと心からの喜びで生きているかどうかとは、一致しないことが多いが。
間違っちゃいけないが、本人は何も悪くない。
『レ・ミゼラブル』という有名な作品に、テナルディエ夫妻という憎まれ役が出てくる。主人公コゼットをいじめる、いわゆる悪役だ。
でも、その役は必要なのだ。ただ、そういう役回りであるだけで、そこに善悪や優劣はない。私は、ブログの書き手も批判コメ主もただそういう役回りなだけだ、と思っている。
●善か、悪か。
正しいか、間違っているか。
勝ち組か、負け組か。男か、女か。
文明人か、未開種族か。白人か、有色人種か——。
長らくやってきたんだから、コレ。
皆、きっと疲れてきたはずだ。
そろそろ、やめません?
例えば、本書の筆者であるこの私。
気に入らないコメントは、載せません。
ここは私が自分の楽しみのために書いているのであって、間違っても皆さんが主人ではない。(小説で何としても売れたい、という書き手は読者は神様だろうからどんな反応でも尊重するだろうが、それはそれ。私は私。)
だから、したいようにさせていただく。気の済むようにする権限がある。
先ほど紹介した、単純な思考構造のコメ主が、私に関わってしまうとどんな反応になるだろうか? 例えば、批判的なコメントを残してそれが私に削除、あるいは削除されないまでも無反応を示されたりしたら——
●私の批判コメもきちんとのせた(釈明返答があった)あの先生は、まだマシ。
載せもせず無視するコイツは、都合の悪いことから逃げるトンデモナイヤツ。
彼らに言わせると、筆者のようなのは人格者ではないのだそうである。
……えっと、そもそも「人格者」って何?
覚醒したり、スピリチュアル的情報を発信するような人は、その「人格者」とやらでないといけない? ほぉ~そういう押しつけがあるんですね! 実に面白い。
私からすると、批判的なコメントを正直にアップする人が皆、心がけの素敵な人たちだとは思わない。その逆すら、ある。
その私の判断基準は、コレ。
●その人が、本当にそうしたくてしているのか。
つまり、批判コメを有難く受け取り、自分がさらに前進するための肥やしにしよう、と心からのコミットがあってそうしているなら、素晴らしいということだ。
自分が宇宙の主人公(王)としての「~したい」という権限をもって、あえて選択しているのなら、その選択は実にパワフルだ。
また、そういう積極的な意味合いではないにしても、もうその人が超越していて「その程度のレベルのことはどうでもいい」という境地に至っていて、批判コメも「ほらよ」って感じで、恐れもなくアップされている場合。これもOK。
しかし……
●批判コメも、分け隔てなく載せないといけない。
(削除して、いちゃもんつけられたらどうしよう? という恐れ)
このブログがうまくやっていくためには商売と同じで、お客様第一。
決して読者様に気分を害させてはいけない。
そういう思いで、頑張って批判も受け入れ、公表しているならくだらない。実にくだらない。
売れている売れていない、支持者が多い少ないは関係ない。正しい行いに見えてもそこに義務感があるなら、味気ない。
記者会見で、「謝罪」ってあるでしょ?
企業や芸能人が何かミスをしたら、「申し訳ありませんでした」と頭を下げる。それを、カメラがばしゃばしゃ撮る。
あれ、テレビを通して見ている皆さんは、うれしいですか? 謝ってもらって、良かったと本当に思いますか? 社会体裁上のポーズが、どれだけ多いか。
多少申し訳ない気持ちはあっても、「何もここまで……」という理不尽感をかみ殺して謝っているケースも。そんな、心のこもらない謝罪なんて、何の意味もない。
野球のボールが飛び込んで、ある家のガラス窓が割れた。
すぐにでも子どもが謝りに来るかと思えば、来ない。
次の日になって、ある親子が謝りに来た。どうも、本人はバレてしまったから無理矢理連れて来られたようで、親が一人で息巻いている。
「ホラッ、健太! おうちの人にごめんなさい、は!?」
そうすごまれても、子どもはふてくされている。親が強制的に手で頭を押さえつけて、一応はゴメンナサイと頭を下げさせた恰好にはなった。
想像してみてください。コレ、謝られたおうちの人は、うれしいでしょうか?
謝罪や反省は、心からのものであってこそ、うれしいいもの。
そしてそれは、こちらがコントロールできることではないのだ。
こちらはただ、相手の反応を受け止めるだけ。
とりあえず、自分の批判コメが相手にされ、残ればよしというのは——
●相手のその行為が、どんな気持ちでしたどんな質のものでも、とりあえず自分の満足いくようになりさえすれば、何でもいいのだ。
自分の思い通りの展開になれば質は問わないという、実にお子様な発想なのだ。
実際、そういう人たちは、欲求が通りメンツが保てると、その後は実におとなしいものだ。まるで、ジャイアン。
相手がどういう気持ちかに関係なく、言うことを聞いてくれているという現象のみで満足する。相手など、本来こちらの意図でコントロールできないのだから——
●結果的にコメントをアップしてくれたら、それは相手からの答え。
結果的に無視されても、それはそれで相手からの意思表示であり、解答。
どちらかであるべきだ、という前提だと、生きる上で苦しみが増す。
たとえどちらでも、あるがままを受け止め、感じてみる。
ブログ主は、自分が感じた上で選んだ選択なら例えどちらでも、胸を張ればいい。
例えば筆者の場合。私が、コメントのさわりを読んだだけで「おお批判だ! ヤダヤダ」と気付いた後は読みもしないで、ホイホイ削除していると思いますか?
ちゃんと、読んでます。で、感じています。その上で、どう扱いたいかを決めているだけです。
ただ結果的に、圧倒的に「エネルギー的に相手にしたくない波動のものが多い」というだけ。頭悪い批判が多いというだけ。
でも、実は批判コメントを載せないことを良く思わない人なんて、そう多くない。
そもそも、圧倒的多数が批判コメ主のような感性の人なら、最初の話に登場したブログは需要がなくなって消えている。
つまりは、冒頭のブログのやり方や筆者のあり方を認め、問題と思わない方が多いのだ。逆に、感謝されることもあるくらいである。
先日、こう言ってくださった方がいる。
筆者のやっているブログは、読みやすいと。
読みやすいというのはどういう意味でか、というと——
批判コメントをはぶいてくれているのがありがたい、というのである。ここへは、楽しみに来ている。筆者の書く話が好きで、そうだそうだと思いに来ている。それを妨げるようなものがないので、私としてはうれしいと。
逆に、別のある方のブログは何でもアップしている(ように見える)ので (それはそれでちゃんと意図があってのことだろうが)、気持ちよく読みたいと来ている側からすると非常に読みづらいと。
これは批判ではなく、あくまでも一読者の素直な声を紹介しただけである。
すべての人を納得させるなんて、不可能だ。
不可能というか、それが前提で、それを承知で楽しみに来たのだ。この地球というゲーム世界には。
もちろん私のやっていることは宗教を作ることではないから、すべての人に分かってほしいとは思わない。むしろ、そんなことになったら気持ち悪い。
波動の合う仲間たちと、楽しくやれればいいと思っている。
もちろん、それ以外の群れがどうでもいいということではない。彼らなりの価値観や信条があるだろうから、それを尊重してどうぞお好きに、と言うだけである。
ただし、こちらがわざわざそれに付き合う義務はない。それぞれが気持ちよく棲み分けができたらいいね、ということ。
批判コメントを、正直にアップするブログ。
それらをブログ主の権限のもと、公開しない選択をするブログ。
どちらが正しい、どちらが間違っているはない。
ブログ主が、人生の主人としてどうしたいのか、どういうスタンスでいたいのかだけが大事。その上でのことなら、結果がどっちでも素敵なこと。
ただ、周囲を脅威と感じ、恐れという感情から「心からそうしたいというよりは、そうしないとまずいから」という波動でする行為は愚かなことである。(もちろん、ゲームに勝つという目的的側面だけにおいて)
もちろん、ブログを読む皆様もそうだ。
このブログが、あのブログが、正しいから読むのではなく自分が好きだから。自分の感覚にフィットしているから。理屈は抜きで、ビビッと来たから。
そういうことで、ブログ(ここでは本書)を読んでくださるのなら、幸いである。
今までの、偽りの二分法。
●良いか悪いか。
ある基準に照らして、正しいか間違いか。
これからの、新時代の聖なる二分法。
●したいかしたくないか。
好きか嫌いか。
楽しいか、楽しくないか。
ワクワクするか、しないか。
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