Q&Aのコーナー第四十九回「兎の眼」

【質問】


 私は、ある病気が原因でいじめにあっていました。

(相談文には病名が書かれていましたが、この記事内では伏せさせていただきます)

 緊張したりするとその病気の症状が出て、周囲に迷惑をかけてしまいます。

 今まで親や心療内科などに相談しても治らず、原因も分からずじまい。

 気にすれば気にするほど悪化するので、正直困っています。

 高校ではそれが原因で不登校になったり、いじめにあったり、やさしいクラスメイトからも腫れ物に触るような扱いを受けたりして、すごく人とかかわることが怖くなりました。

 大学ではそれを克服しようとサークルに入ったりしてなんでも話せる友人をつくることができたのですが、症状はよくならず、学科では話したことのない男子数人から聞こえるように悪口を言われたり指を差されて笑われたりしていました。

 今は、日本を離れた留学先で学校に通っていますが、症状のせいか周りが少し気を使っているのを感じるし、またいじめられるんじゃないか、自分なんかとみんな仲良くなりたくないんじゃないか、授業中も症状が出るしみんなの邪魔になってるんじゃないかと悩んでしまいます。

 この病気がすごくコンプレックスで、友人づくりも恋愛も積極的になれません。いつまでこの状況が続くのかな、と留学したばかりなのに憂鬱になってしまいます。



 ただ、この病気でいじめられたり、親や周りから仮病扱いされたり人に言えないつらい思いをしたことで、まったく何もいいことがなかったかといえば、そんなこともありません。

 それだけ、他人の痛みも分かるようになり、それが私が目指す職業にもプラスに働いていると感じます。こういう使命を持つために今の人生があるかもしれない、と自分を励ましています。

 でもやっぱり、一方で身体のことを気にせず普通に友人をつくって普通に恋愛をして……という生活をしている子が羨ましいと思ってしまいます。

「このままでいいんだろうか」と将来を心配してしまい、人より自分が劣っているように感じる、という悪循環に陥ってまいっています。

 こういう医者に聞いても原因がわからず治らない病気は、もう自分の使命を持ついいきっかけであり必然なんだと思って受け入れるほうがいいのでしょうか?



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 灰谷健次郎という人を知っているだろうか。

 もう亡くなられた方だが、教師をとしての体験を生かして書いた数々の小説作品を生み出した。

 それらの作品は、ただ感動するというだけでなく「教育は、今のあり方でいいのか? 本当に子どもと向き合うというのはどういうことなのか?」そういう問題提起を含み、読む者の胸をえぐるような内容の作品を生む傾向があった。

 そういう、灰谷作品の中に、『兎の眼』という小説がある。



 教員免許を取り、大学を出てすぐ小学校の教師になった若い女性が主人公。

 強烈な「問題児」たちを前に、人生経験も浅い彼女は手も足も出ない。

 傷付き、泣かされる日々の中。教師の心にも生徒の心にも変化が訪れる——。

『兎の眼』。きっと子どもたちは、そんな目で世界を見ている。

 大人はどうか。大人は別の目を持っていて、そちらにシフトするよう子どもたちに働きかける。教育というものが、それを仕事と定義してしまったから仕方がない。

 大人たちが、『兎の眼』を持てたら、どうだろう。

 きっと教育は、優秀な一部の人材を作り出そうとすることから卒業して、すべての命を偏り見ず、強者弱者などの概念を持たない、優しい目で子どもを見るようになるだろう。



 私は、この質問文を読んだ時、言葉を失った。

 実は、この質問はだいぶ前にいただいたものである。でも、申し訳ないがすぐに安逸に答えるわけにはいかない、と思った。

 ひととおりの答えなど、一瞬で出る。でも、これは本人を目の前にしていない上に、文字のみの返答になる。慎重を期したい、という思いとともに、やっと今日扱う気になった。



 本書でも前述したことだが、悪者探しはやめようね、と声をかけたい。

 あなたの親が悪いのではない。ましてや、遺伝子のせいになどできない。

 あなたも、何も悪くない。かといって、他の何かのせいではない。

 ただ、そうであるだけである。

 イエス・キリストの弟子たちが、道端で物乞いをしている盲人を見て、イエスに問うた。「先生。この者が目が見えないのは、本人のせいですか。それとも親や先祖のせいですか?」

 イエスの答えは、こうであった。


 

●本人が悪いのでも、親や先祖のせいでもない。

 ただ、神のわざがこの者に現れただけである。



 聖書の訳し方によっては、「神の栄光が現れた」とも読める。

 この答えは、障がい=よくないもの、不幸なことという認識から逃げられない人が聞くと、「???」とクエスチョンマークが飛び交う。なぜなら、どう考えても神が良かれと思ってしたこととは思えないからだ。

 障がいとはただ、人間社会側の都合で作り上げてしまった概念。

 だからイエスは、宇宙にはただ起こることが起こり、そこに善悪や価値の上下などない、と言いたかった。この質問者の病気もまた、同じである。

 何ら、問題ではなく、あるがままにそうあるだけ。



 しかし、問題はそう簡単ではない。

 この方も、自我が選んだ覚えのない状況とはいえ、この方独自のゲームソフトの中で、そんな(病気持ちの)キャラとして置かれた。

 それは、否定できない事実である。だからこそ、苦しんでいる。

 この方も、色々スピリチュアル的なことは学んできている方のようだ。だから、こういう質問をしたらば返ってきそうな答えもまた、知っているはず。

 でも、やっぱり問わずにはいられないのだ。私は、つくづく思う。



●スピリチュアルとは、知識や理屈ではない。

 情である。

 そして、情に整合性などない。

 いや、ないのではなく「必要ない」のだ。



 知識欲で、整合性合わせに躍起になっている人が幸せになれないのも。

 いくら知識でなぜなに、が分かってもまだ釈然とせず、心が晴れないのも結局、思考上・理屈上の整理や納得が人を救わず、無形の・感情の解放こそが人を癒すから。

 あるがままでいいんだ。私は、何も問題なかったんだ!

 そのパラダイム・シフトだけが問題を一掃する。

 それをあえて、悟りと呼んでもよい。それほどに大事なことだから。



 でも、もうひとつ別の側面からも考えねばなるまい。

 なぜ、質問者は苦しいのか。

 問題の根幹は——



●関係性の問題。



 人が苦しいのは、他人の認識というものがあると考えているからだ。

 他人が自分を(自分の問題を)どう見るかが、気になる。

 他人の反応、特に否定的な反応には心が苦しい。

 ここから書くことは、ゲーム世界での立ち回りのノウハウになってしまうが、たまにはよかろう。



●スピリチュアル系の情報(特に、因習的価値観を打破するもの)を拡散していこう。そして何より、まずあなたが自分から率先して、視点を変化させよう。



 スピリチュアルでずっと言われてきたのは、「外には問題はない。あなたが変わることだ」ということ。

 それができたら、苦悩はない。できたら、その時はもう「問題を外に見て解決したいと思う次元」からは卒業しているので、意味がない。

 だからと言って、目の前の偏見をもった人物を真正面から説得するのは、いいやり方ではない。相手も神。その人なりの最善の旅をしているので、こちらの基準で「この人ダメ」と判断するのはよくない。それをしたら、偏見をなくすために別の偏見を作る、というワナにはまる。



 だから、神としての一人ひとりが、自らの選択で情報を選べる機会を作ってあげるのだ。押し付けるのではなく、静かに拡散するのだ。

 そして、聞く耳のある者が聞けるようにしてあげるのだ。かつて、イエス・キリストは自ら悟った内容を、群衆に説教したと伝えられている。

 その説教の中に、彼は必ずこの言葉を添えた。

「聞く耳のある者は、聞きなさい。」

 イエスは「私の言うことは真理だから、あなたがたは聞き入れねばならない」とは言わず、「あなたが宇宙の王だから、私の言葉を聞きたければ、あなた自らの意志で聞き入れればよい。聞き入れなくても、それはあなたの自由であるから、押し付けはしない」と、そう言ったのだ。

 何よりあなたが、一人ひとりが、しっかりと命を偏り見ない実践をするのだ。

 そして、人がそのあなたの姿を見て、気付きを得られるようにするのだ。

 


 山本五十六という人物の残した、有名な名言がある。



●やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、

 ほめてやらねば、人は動かじ。



 まず、「やってみせ」が重要。

 他者から偏見の目をもって見られたくないのであれば、まずはあなたが偏見を持たないようにすること。

 それはなにも、障がいをもつ方だけを偏り見なければいいのか、というとそんな甘いものではない。偏見、というからにはすべての偏見である。

 例えば、性格的な部分。見た目の美醜。クセ的な部分。

 偏見をもつ対象は、人だけではない。出来事や現象に対しても。

 こう書くと、何か大変なことを要求されているように感じるかもしれない。

 でも、大丈夫。

 


 偏見を持たないとは、まったくそういう発想が湧いても来ない、ということでなくてもいい。そのような潔癖症的な考えは捨てましょう。

 偏見、という過去の名残のような感情が顔を出すたびに「ああ、こういうことを感じたんだな」 と認めてから、「もうこれは感じる必要がないし、仮に感じてしまったからといって罪悪感を持つ必要はないんだ」と手放しましょう。



 実は、質問者さんは私と面識のある方です。知っている方だけに、質問内容が響きました。

 ただ 「あなたがすべてだ。あなたの意識を変えることだ」とだけで斬ることができませんでした。だからこその、提案です。

 あなたが伝えたいことを、堂々と伝えていきましょう。

 人に。世間に。

 ただ、押し付けにならないような知恵は必要です。

 あくまでも、その人が自分の意志で選択するのでばければ、意味がありません。

 今までの歴史ではそれが分からなかったので、王や国家の中心は民に思想や服従を強制したのです。

 あなた自身が変わることが一番の骨子なのですが、スピリチュアルなメッセージを言葉だけなく生き方で示していけば、それは自然と拡散されます。

 そして、外側からも何かが変わっていく現象を見るようになります。(それすらもあなたが生んではいるのですが、今日の話の次元では置いておきましょう)



 兎の眼。

 それは、ただ真実の優しさをもって、見つめる眼。

 本当は弱者などいないのだけれど、それを演じている者の思いを見抜き、苦悩を認め、包んで昇華してしまうほどのエネルギーを持った眼。

 そんな眼をもつ人を増やしていけば、世界は変わります。

 まずは、あなたがそうなりましょう。そうしたら、そのあなたを見る人が変わってきます。

 相手も神。あなたが神なる本質を生活上であらわしたなら、気付かずにいることの方が難しい。



 静かに、しかし思ったより早いスピードで、世界は変わろうとしています。

 どうか、質問者さんが世界を変える眼を持てますように。

 刺すような偏見の視線が、あなたの優しい視線によって溶け出しますように。

 そして世界が、『兎の眼』でいっぱいになりますように——



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



 どんな人にあっても、まずその人のなかにある、

 美しいものを見るようにしています。


 この人のなかで、いちばん素晴らしいものはなんだろう?

 そこから始めようとしております。


 そうしますと、かならず美しいところが見つかって、

 そうすると私はその人を愛することができるようになって、

 それが愛のはじまりとなります。



 ~マザー・テレサ~

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