Q&Aのコーナー第四十五回「そういう質問は机上の空論です」
Q①.例えば家族や大切な人が犯罪に巻き込まれて被害者になり命を落としたり、大きな傷を受けた時、加害者に対し罪人ではないとは思えないと思うのですが、ワンネスの体験をすれば思えるのでしょうか?
Q②.私は小中高とずっといじめを受けていました。なので時々、こう考えてしまいます。あの時私をいじめていた人たちは楽しくてやっていたのだろうか。自分が楽しむためならどんなに他人が泣こうが喚こうがどうでもいい、何をしてもいいのだろうか? と。
A.そういうのを、『机上の空論』 と言います。
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この世的には、当たり前のことだが。
例えば、筆者が本書で「~は~だ」「~の時には~と考えればよい」というようなことを言うとする。そうすると、必ずこう言う方がいる。
『じゃあ、これこれこういう時はどうなんですか?』
気持ちは分かる。
私たちは、論理的思考、科学的思考パターンに慣らされてきた。
1+1は、2。それは日本だろうが北極だろうが、世界中どこへ行っても同じ。
だから人は、何か定義めいた話を聞くと、すぐさま「だったら例外なく、どんなパターンにも当てはまるはず!」という、無意識の思考が作動する。
で、想像上の世界でこねくり回した思考で、どうしてもしっくりこない場合に、疑問(感情的に地雷を踏めば反論)という形で相手に返すことになる。
実は、三次元キャラとしてたかだか数十年生きてきて摂取したデーごときで、宇宙の全パターンを正確に判定できるなんてない。(本来はできるが、ゲームのためにその力を封印している)
人は、そんなことは棚に上げて、あらゆる論理に矛盾を見つけては解決しようとする。ここで、ひとつハッキリさせておきたいことがある。
●状況というのは、『生もの』である。
スーパーで生鮮食料品を買ったら、かならず賞味期限がある。
『生ものですので、本日中にお召し上がりください』なんて表示もある。
スピリチュアルをやっているなら、『今ここ』という概念はよく耳にすると思う。過去も未来もなく、私たちには常に現在、つまり「今ここ」しかない。体験されたそばから、それはもう消え去り存在しない。
もっと言えば、状況は一期一会。まったく同じ体験・状況というものは二度とない。ゆえに私たちは、常にその一瞬にしか賞味期限のない生ものを、味わい続けているようなもの。
確かに、「あの時有効だったこれは、この状況でも有効ではないのか?」という発想はまったくの間違いではないし、実際問題として有効な結果を出せることもあるため、良いものだと思われている。
だが、うまくいくことも多いから、といっていつ何時でも「~は~だから、この場合もそうに違いない」という発想で生きていると、それで処理しきれない状況が生じた時に、パニックに陥る。
だから、究極的には「~は~だ」なんて決めつけない生き方がよい。
でもそんなことを言うと、スピリチュアル本なんて売れなくなるから……(笑)だから、スピリチュアル本なんてものは、趣味のカテゴリーで楽しむのが良い。
決してそれらを人生における、最も大事な気合を入れるべき事柄に祭り上げないこと。(もっとも、心からそうしたい方は別である)
だから、本来「~は~だ」なんてことを言葉にすることにさほど意味はない。ましてやそれは、万民が従うべき指標などという、たいそうなものではあり得ない。
あ、私これ賛成!これ、なんだか面白い!しっくりくる!
そういう、『お好み』の世界。
決して、正しいから信じる、のではありませんよ。
①の質問を見てみよう。
『例えば家族や大切な人が犯罪に巻き込まれて被害者になり命を落としたり、大きな傷を受けた時、加害者に対し罪人ではないとは思えないと思うのですが……』
この質問者が、本当に何かの事件の当事者なら、この質問にも意味がある。だって、まさにその状況を味わったのだから。
でも、文章の感じから、この方自身が身内を理不尽な事故で失ったのではない、と推察する。
●つまりこの方は、想像でものを言っている。切羽詰った「魂の問い」ではなく、これはどうなんだろう? という知的好奇心から聞いているだけ。
もちろん、反論もあろう。
だって、それくらいのことは私でも判断できるはずだ、と思われるだろうから。
実は、そこが罠なのである。
頭の中で、いくらシュミレーションをこねくり回そうが、それは「趣味の時間」「個人内で上映する連続ドラマ」以上の意味を持たない。
人はどうしても、自分の見聞きした範囲のデータだけで、他のすべてをも推し測ってしまう癖がある。状況なんて生ものだから、頭の中であれやこれやと考えても、実際その場面で役に立たないことは多い。
ある仕事に対し、色々と良い想像を張り巡らし、あこがれてその仕事に就いたものの、実際は全然違った、なんてこともある。メディアではあんなにファンになった著名人が、近しく会って話してみると、全然イメージと違って幻滅しちゃったなんてこともあるだろう。
自分がその立場に実際に立ったのでもない、データも少ない事柄に対して、理論的思考を当てはめて想像するなんてことは、全然建設的ではない。
②の質問は、どうか。
この方が、実際にいじめの当事者であったことが、本人の記述からうかがえる。
そういう意味では、こういう事柄を考えることには、まだ意義があると言える。
しかし、ここで大事なことがふたつある。
1.これがもう、過ぎ去った過去の出来事だということ。
2.自分のことだけでなく『いじめた者』にまで思考の手を伸ばしていること。
賞味期限を過ぎた、傷んだ生ものを食べているので、本人は苦しそうだ。
また、「あの人たちは、楽しむためにやっていたのだろうか」そんなことが分かってどうするんです?
楽しむためにやっていたんだったら、やはりゆるせませんか?
もしそうではなかったのなら、それでゆるせるのですか?
●ゆるすのは、あなたの主体的な意思です。
こうだからゆるす、ああだからゆるさないというのは、条件付き愛です。
間違っちゃいけません。ゆるす、というのは相手のためにする(してやる)ことではありません。自分のためにすることなのです。
あなたがゆるしたいから、ゆるすのです。
相手の反応(あるいは相手がどんな気持ちでやったか)によって、あなたの反応が左右されるのですか? それならば、あなたはあなた自身が人生の主人としての人生を、生きていませんね。
でも、それが悪いことなのではありません。あなた自身がそれでよければ問題ないので、これ以上私が言うことはありません。
本書に書かれていることは、以上のことから筆者の「趣味」であり「言いたいことを言っている」に過ぎないことを、ご理解いただければ幸いです。
だから、正しい間違っているを言ってくる方とは、そもそも話が合わない。
宇宙のすべての現象は、生ものです。その時その瞬間、その場所独特の意味合いと価値がある。だから、本に文字で書かれてあるような理屈という物差しを当てて、その計り知れない価値を測ろうなど、笑止千万。
生ものなので、今限定で味わってください。
そして、次の瞬間には捨ててください。
今、まさに目の前にあることを常に、十二分に味わうようにしてください。
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